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(回答先: Re: 東の空さん、こんにちは。 投稿者 東の空 日時 2005 年 10 月 11 日 07:04:38)
上の写真ですが、以前雑談板でNarongchaiさんからご紹介いただいたブログから拾ってきたものです。
きっと日本ではごく日常的な、あたりまえの風景なんでしょうね。
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本音をいいますと「コカコーラのガキ」や「電車の中で、平気で化粧をする女」というのが悪いというのは私には確信がもてません。
確かにコカコーラをぶっかけられるのはいやです。
しかし、電車の中で子供が騒いでいたり、女性が化粧していたり、携帯でしゃべっていたり、お菓子を食べていたり、女子高生が床に座り込んでいたりすることを社会が荒廃していることの徴であるかのように言う風潮はどうかと思っています。
田舎の電車の中ではおじちゃんやおばちゃんが長靴で乗り込んできて、大声でしゃべり、おにぎりを食べたりしています。最近は知りませんが以前はそうでした。そんなことを考えると所謂公共の場ってなんなんだと思えてしまうのです。
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まずちょっと田舎の電車はおいといて、コーラのガキとか電車の中で化粧をしたり、床に座り込む写真のような子供たちのことを考えてみます。
最初に結論を言ってしまいますが、最近の脳科学の研究からわかったことは、彼らの大脳皮質の「前頭連合野」が未発達であるということなんですね。
前頭連合野とは何なのかということですが、以下のサイトで簡単に説明しているように、「人間を人間たらしめている」大脳の最も高次な機能を掌る司令塔ということです。
http://www.prefrontier.com/prefrontal.html
ここが発達していない子供らが、公共の場所でのああいったビヘイビヤーを呈する。
彼らの顔をしげしげと眺めてみると、やはりどこか「知性」が欠落しているように見える。
彼らのビヘイビヤーを社会通念とかモラルといった観点から論ずると本質が見えなくなってしまうが、脳科学の観点から見れば一目瞭然。
ああいったビヘイビヤーは、脳の機能不全における他覚症状だということですね。
これを前提に考えれば、教育としての「躾」の本質が見えてくる。
つまり正しい躾とは、子供の前頭連合野の発達を促す行為であるということに尽きます。
こういった事実の積み重ねから遡及的に見ていけば、子供に「あれやっちゃいけない」、「ああしろこうしろ」というのは躾でも教育でもないことがわかる。
動物を調教するのと一緒だということです。
小生は、子供の前頭連合野が正常に発達しているのであれば、現代の日本で一般的に認識されているところに「躾」なぞ一切無用、むしろ子供に害をなすと思っています。
(ここのところが東の空さんのおっしゃる「蛹から出たばかりのチョウの羽をいじる」に符合するところだと思います。)
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ところで、コカコーラのガキの話ですが、社会性というものがどう育つかということですよね。
躾がなってないというのが普通の考えですが、あるタイプの親では、自分自身の社会への恐れというか、世間体というか、そういう心理をそのまま躾と称して子供に投影しているだけの場合もあるように思います。子供のときはいい子ですが、自発的に他者と関わっていくような感覚は育たないでしょう。(特に目立った問題を起こさなくても)
小さいときからよく躾けられた子供の場合、自分の意志というものが育ちません。それなりに社会に適応していった場合でも、社会が提供した標準に合わせるだけなので、社会を作っているという意識がなくて、実質的には無責任です。自分の意志という羽をいじくった社会にどこかで無意識的にですが報復することになります。
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大切なことなので再度ハイライトしておきます。
まさに東の空さんもお気づきのように、一般的に認識されている「躾」というのが本質的な躾ではなく、子供を動物として見たてた調教なんですね。
この調教を躾と思い込んでいる日本の親は、たぶん半数近くにのぼるのではないでしょうか?
また子供をペットのように育てる親も多いですが、同じことです。
どちらにしても、これらの親に育てられた子供は人間として育ちません。
人間のような形体をした、ある種の動物になります。
前頭連合野の発達が阻害されるからです。
小生、こういった話をする時によく引き合いに出させてもらう人がいるのですが、それは「五体不満足」の乙武さん。
彼などはまさに前頭連合野が「超高度に」発達している人だと思っていたのですが、なんのことはない彼自身が自著の中で、「僕は親から、前頭知能を発達させてもらった」と自己分析しています。
最後に田舎の電車の中で大声で喋る爺ちゃん婆ちゃんの件ですが、あれは田舎というコミュニティーにおいては、都会のように内と外が判然と分かれていないということでしょうね。
つまり田舎の爺ちゃん婆ちゃんは、地元の電車の中でも自宅にいる時とあまり変わらず、くつろいでいるのでしょう。(笑)
田舎というのはそういう意味で素朴で健康的であり、都会というところは常に人に緊張を強いる、とてもに非人間的なところだとも言えます。