★阿修羅♪ > 社会問題2 > 169.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 東の空さん、こんにちは。 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 10 月 09 日 10:33:59)
デラシネさんお久しぶりです
紹介させてもらった古山明男さんの話、すごく微妙なところが書かれていると思い、非常に気に入っております。
子供の中には自発的に成長しようとしている何かがあり、これが成長して始めてその能力が自分のものになるのであって、そうでない場合は何かろくでもないものになるということだと思います。自分のものとして能力が育つということが、人が個人となるということに繋がっているのではないでしょうか。
また、「下手に言葉で指示するのは、蛹から出たばかりのチョウの羽をいじるようなことになる。」という比喩にあるように、発生学的な見方も重要です。子供は大人における能力の形態とは異なる形でその元になるものを持っていて、それが姿をかえてゆくということで、それが生かされるように事が進まなければ拙いということです。単純に外から操作するということではうまく行かないのです。
例えば想像や空想が思考力に育つのではないかと思います。そうすると、勉強より想像や空想をしていた方が楽しいと思う子供がいたらおかしな状況になっているということです。勉強と想像力が分離したまま進めば、勉強と同じ領域(真面目に考えるべきこと)では想像力を働かせないという不思議なことになります。大人によくみられる教条主義的な頭の硬さというものは、まともに成長しなかった子供の思考力の上に大人の知識が乗っかってるんじゃないかと思います。
教育も躾もかなりの場合、「蛹から出たばかりのチョウの羽をいじる」ということになりがちであると思います。
そして今の大人自身が羽をいじられて育っていますから、実に訳の分からんことが起こっているんですよね。
この恐るべき循環については、デラシネさんも強く感じておられると思います。
ところで、コカコーラのガキの話ですが、社会性というものがどう育つかということですよね。
躾がなってないというのが普通の考えですが、あるタイプの親では、自分自身の社会への恐れというか、世間体というか、そういう心理をそのまま躾と称して子供に投影しているだけの場合もあるように思います。子供のときはいい子ですが、自発的に他者と関わっていくような感覚は育たないでしょう。(特に目立った問題を起こさなくても)
小さいときからよく躾けられた子供の場合、自分の意志というものが育ちません。それなりに社会に適応していった場合でも、社会が提供した標準に合わせるだけなので、社会を作っているという意識がなくて、実質的には無責任です。自分の意志という羽をいじくった社会にどこかで無意識的にですが報復することになります。
本音をいいますと「コカコーラのガキ」や「電車の中で、平気で化粧をする女」というのが悪いというのは私には確信がもてません。
確かにコカコーラをぶっかけられるのはいやです。
しかし、電車の中で子供が騒いでいたり、女性が化粧していたり、携帯でしゃべっていたり、お菓子を食べていたり、女子高生が床に座り込んでいたりすることを社会が荒廃していることの徴であるかのように言う風潮はどうかと思っています。
田舎の電車の中ではおじちゃんやおばちゃんが長靴で乗り込んできて、大声でしゃべり、おにぎりを食べたりしています。最近は知りませんが以前はそうでした。そんなことを考えると所謂公共の場ってなんなんだと思えてしまうのです。
とまあ、思いつきで勝手なことを書きました。
ところで、私の娘はまだ2歳になったばかりで、育った結果をみるという怖い局面はまだです。
お分かりと思いますが、めちゃくちゃ可愛いです。それに面白い。