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(回答先: 文部科学省の役人に教育を任せていることこそ問題 投稿者 東の空 日時 2005 年 10 月 13 日 04:50:50)
東の空さん、どうもです。
下にレスしようとしたら、彗星さんの「米国式方式の導入」の記事が怒髪天を衝き、こちらを優先してしまいました。
タイトルは「学校こそ民営化すべき」という東の空さんのご意見に対する、小生の意見です。
まず、教育の完全民営化ですが、資本主義社会たる日本においては無理です。
それは必ずや、教育に「資本主義的経営」の概念が持ち込まれ、あからさまな「落ちこぼれ」を大量に産み出すこととなるでしょう。
現在でも私立の学校は公立に比し高い学力水準を保っておりますが、それは私立の学校が「暴力装置」を持っているからなんですね。
つまりはある生徒の成績なり素行の良し悪しがその学校の「水準」に至らない場合、私学は躊躇なくその生徒を放逐してしまいます。
それができるのが「私立」であり、だから「水準」が保てる。
聞いた話では東京など、公立の学校が私立の「落ちこぼれ」のセーフティネットになっているそうですね。
医療の完全民営化と一緒で、学校の完全民営化はさらなる弊害を生み出すでしょう。
医療も教育も、資本主義にそぐわないのです。
小生は、日本の教育の最大の問題点は、教育というものが「社会的要求」に呼応して運営されていることにあると思っています。
つまりは教育というものは、社会的要求とは無縁のところに位置すべきだと。
この意味、ご理解いただけますでしょうか?
学校という枠にとらわれず、そもそも「教育の最大目的」とは何でしょうか?
それは子供たちを「社会にとって都合のいい」人間に育てることではなく、その子が人生という大海原を自信をもって航海していけるような、理想を頂点とした「人格」を育てることではないでしょうか?
つまりは教育に「国の利害、社会の利害、親の利害」が関与すべきではないと。
もし小生の言っていることが正しいとすると、まず変えなければならないのは制度ではなく、ひとりひとりの「親の意識」ということになります。
学校というものに限定して言えば、日本であれば過去に存在した「寺子屋」が理想的な「学校」であったと小生は思っています。
これはもちろん、「教育を受けられる子供が稀であった」当時の社会情勢があったればこその話ですが、それでも「理想的な学校」のエッセンスは凝縮されているはずです。
寺子屋は「純粋に学問を学ぶ」場所であり、大きな意味における「教育」は、彼らが生きる社会という枠にあった。
「今でもそうではないか」とおっしゃるかもしれませんが、違います。
現在は子供たちを「社会から隔絶」し、「学校に隔離」しているのです。
続きは、また後ほど書かせていただきます。
本日は、そろそろ寝なければなりませんので・・。(^^;