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ありがとうございます金十字架さん。禽獣自家産…既に生きていない人の活動力 (怒りと諦め) 中くらいの美味しさのカレーの注
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投稿者 よろけるチーズU 日時 2005 年 12 月 14 日 02:54:12: vt.PF/jaeRlH6
 

1 真理や悟りを説く人は、何が悪くて何が良いかという、選択基準をつまびらかにして導いてくれますね。

しかし、それはけっきょく何かを偏らせる結果になるかもしれません。
つまり排斥するわけですね。
何を排斥するかはまちまちでしょう。

例に挙げるのは簡単だとして、
排斥するのは民族とか、思想とか、内面の抽象的な対象とか。

まず、排斥すべきで自明なのは悪ですね。
とにかく悪というものだけは、何をおいても悪いでしょう。

続いて、ここで幾つかの概念が問題になってくるでしょうが、しかし別段、
愚が悪いとか、孤立が悪いとか、怒りが悪いとか、諦めることが悪いとか、
反対に諦めの悪いのが悪いとかに限った話ではないでしょうね。

例えば自分の努力が注目されないのは、しかるべき受益者が世間の耳目を集める広告を打ち捲り、
絶えず一握りにスポットが当たるように常に仕組んでいるからだ、というような元凶の定位の仕方などは如何でしょうか。

すなわち連帯責任というのか、いわば同罪としての著名人はもとより、
そしてむろん著名人をつくりあげるメディアシステムが、そもそも悪いという世界観ですね。
尤も積極的に人の所為にする、こういう考え方を、自身けっこう好んでいるとは思いますが。

しかし単純に著名人が悪い、自分は悪くないという話に収斂してしまうだろうし、
それに何よりここでは、著名人は自分には不要、
社会の無数の人材を発掘するには有害、という選別が成立してしまっているでしょう。

ちなみに自分は悪くない、といういいかたは誤解を招くかもしれません。
どのみち仮令、自分の所為であったとしても、自分が被害者でありさえすれば、
自分は悪くは無いはずだから、と申し添えておきましょう。

とにかく、著名人が悪いということだとしても、
そもそも、憎き著名人というだけで襲う伝統も無いはずで。

そんなふうに捌け口の無い憎悪を煽っても、
恐らくは社会的に機能しないというので、著名人憎悪というのは集団的ないし制度的に、一定の形式を成すには至らないでしょうね。
すると、そういう真理を説いても説得力が無いかもしれないわけです。

ところがですよ、そのときに、では説得力とは何なのかといえば、
何のことはない、集団的ないし制度的な一定の形式だったりするわけでしょう?
これでは何をかいわんやですよね。

ところで、諦めと怒りは拮抗するらしいことに気づいておられるでしょうか。
諦めは怒りを抑え、怒りは諦めを抑えるといった具合に。

それらを力として、つまり諦めの力と怒りの力として見るときには、
少なくとも互いの、悪いとされうる部分に対しては、良い作用をもたらすと思うのです。

また諦めが、力の振り替えという意味で在るなら、株式投資のようなニュアンスにもなるでしょうし。

つまり、今この自分に投資するよりも自分にとって望ましい結果を生じるほうへと、順次、投資先を変えていくということですね。
さらにまた他方では、怒りが我を忘れさせて気持ちをクリーニングするというなら、怒るイベントにはサウナスパみたいなリフレッシュ効果もあるでしょう。

怒りと諦めは、そういうふうに使うべきかもしれず、
というのか、一般的な自分というものに、怒りや諦めを使わされるのではないでしょうか。
そうだとするなら、それを以て自然の自己命令であるとでもしておきましょうかね。

それだけに、もし怒りや諦めの部分が壊れてしまったら、
にやにや笑ったまま追い回すみたいなことになったりしませんか。
このことからだけでも、それぞれ典型的な感情グループの、相対的な存在意義が、見えてくるのではないでしょうか。

したがって、怒りや諦めといった人間の能力とか属性を切断するかの話には、賛成いたしかねることになろうかと思います。
ほんとうに排除すべきなのは、そういう切断を、あらかさまに唱えてくる人でしょう、
ときには、しばしばといいましょうか、そうした排除を人間単位、類型単位で。

つまり何が良く、何が悪いということを無根拠で出してくる人が問題なのだと思いますよ。
なかんづく、巧みに演出して説得できるタイプというのは特にタチが悪い気がします。
直観だけで自分にも証明できていないというか、初めから嘘で、万が一にも証明する気が無いというのか。

 
2 その何かが存在しない、と証明できないことには、その何かが存在しないとはいえない、
ということを強調しすぎた場合、混乱を生じると思います。

怪しげな風評や迷信が跋扈すると思うわけです。
有るんじゃないかと思い続けているだけでも、やがて心理的に、有るという根拠の無い確信に変わるかもしれませんね。

カルトなどで自称、神秘的な力の持ち主が、ただの偽者だった場合に、
神秘的な力が、そこに有るかもしれないというだけで入信していたら、命取りかもしれないですしね。

まあ、生きていくには身の処し方として何かしらの情報に乗っていかざるを得ないのでしょうけど。

とはいえ1つの情報は、日常の判断だけでなく、一生を左右するかもしれません。
この新聞がいいといわれただけで、その新聞を購読して千の情報に浸ることになるかもしれないわけです。
どの新聞も似たり寄ったりだとかは抜きにして。

だから、そういう、例えば不思議な何かが、この世にあると気分的には確信できても、
自他への証明ができないことは、その程度に主張して欲しいのですね。

それに、そうした気分的な確信には真実があると思うことそのものも、
どこかで、そういう情報を得たり、判断しているだけで、
根本的に何も無かったという場合があるでしょう。
それを、ただ単に人になかなか伝わらないというので、強く、オーバーめに言ってみたりすることがいいのかどうか。

有ると証明できないことは有るとはいえない、
という態度のほうが整理できるかもしれないし、そうすべきバランスというものも有るかもしれませんよ。

 
3 どんなに見聞をひろげても、知っていることには限界があると思うわけです。だから狭いと自覚するだけでいいのでは?
相手を狭いといった場合、自分は広いということを、自ずと意味すると思いますが、では、どれぐらいの広さが必要なのでしょうか。
狭いといった人ぐらいか、超えてはいけないのか、超えるべきなのか、超えられないと見込んだうえでいっているのか。

というか、広さを誇る人は、御自身の広さの度合い、限界認識が足りない人が多いかもしれないですね、狭くはないとしても。
したがって自覚するだけで充分であろうし、そういう人は、己の限界に無自覚な広い人を、或る意味では、すでに充分、超えている気がします。

 
4 たぶん笑い(喜び)の全面化の促進、というのが持論なのでしょう。
どこかでも読んだ気がしますし、別のハンドルだったか。

さて、ではなぜ不必要で邪魔かもしれない怒りというメカニズムを、人間はもっているらしいのでしょうか。
もし自滅的な性格のものなら、これだけ怒りが豊富な人間であれば、とっくの昔に淘汰されていてもおかしくないと思うのですが、機能的に視る限りでは。

 
5 パパラギへの観方は、根本的な文明批判になっているでしょう。
発言する代表が委任されての彼らとしてなのか、批判者固有の感性に依るものなのかはともかくも。

西側、西方の人の出で立ちに始まって、映画や音楽にまで揶揄するというか、素直に呆れておいででしょう?
しかし原住民というのか皆さんも、独自の文化に溺れている側面は無いでしょうか?

そういえば彼らは、立体派に影響を与えるというより、立体派を先取りし、突き抜けているかの面白い柄の服をもっているのですね。
しかし、そんな服でも、少なくとも今、この地からでは着たい、という気をこちらに催させませんね。

翻って西洋的な、どのような柄の服であっても、総じて余り好きではないのですが、
デザイナー気質とは、いったいどのようなことを指されているのでしょう。

 
6 精神面では悟れたなら、重い持病があれば治しましょう、あればですが、というか、本当にあれば、というのか。
長文はエネルギーを使いますね。
どこかで聞いたふうの台詞ながら、いいものをお持ちなのですから、
まあ末長く、他者の愚の仕組みを探求せねばならないでしょうし。

 
7 和歌の本質もまた、韻律だと思いますよ。どんなに空疎な内容でも、端整な、または躍動的な語調が得られれば、
それで成立する種のものですね。
音律の、まさに造形であろうとはいえ、これも直截の喜びではあるでしょう。

和歌が音楽だとすると、自体は一種の清貧音楽であるか、代替音楽というのか、
口で転がす、充電不要の携帯音楽ではないでしょうか。俳句よりは長い短詩形の音楽というのでしょうか?
ショパンやウェーベルンの、十何小節の、というような。

いずれにせよ、日本の音律は西洋音楽と同じ4拍子系のグリッドに適合しますね。
朗誦しながら掌でカウントすると休符の省略個数がよく判るでしょう。

 
8 自己否定の根源を、こちらとしては世界システムの側に還元したがっていると思うのですが、いくら自己責任といわれても、
内蔵する要因が見出せなければどうしようもないだろうし、じっさい落ち度なんて無いかもしれませんしね。
また自己否定には罪も無ければ、それについては禁止でもなくなるはずで。

自信が無い原因は、何らかの基準で否定されてきたこととか、この環境で無能または虚弱であることとかですか。

それと、自分を試すことのリスクが存在するか、あるいは過大になるような、集合環境やら周辺環境やらができてしまい、
思い切って自分との勝負に出、何か手ごたえを掴むということが出来なくなっているからかもしれません。
 

9 愚のメカニズムがわからない場合、世について知っていることは、半分ぐらいなものじゃないですか?
少なくとも、人の現象として分節されている世界の諸々は、一見すばらしいことをも含め、危険なこと、裏のあることはもちろん、
その原因の多くが、愚によるのだと思います。

愚とは、とりあえず自分の思い通りにならない様というのでしょうか、
そしてそれは内面化した他人の期待には副えないという意味でも?

もちろん、うまくいかないことは、悪ではないですね。
そういう質の、そういう種の愚を否定することには、いまのところ反対せざるをえないでしょう。

愚の報いを自分で受ける、そんな自業自得なら帳尻は合っている気がするのです。
そういう人に対して可哀想というのは、まあオマケといえばいいのか。

愚かさへの憐憫や、欠落の魅力というものが、
本来的には必要の無いたぐいの、人の引き寄せあいだとしても、
いまは、もう世が、そういう好悪で組みあがっているものと思います。

いったん組みあがってしまった、
不自然なものを不自然なことでカバーする、
との連鎖が悪循環だとして、
それを一切合財、伐採できるものでしょうか。

これをデフォルトにもっていくことは、精神革命ぐらいの意味で難しいでしょうね。

 
0 邪悪な目論見への警邏もかねておられるらしいのですが、
愚かなことというのが、良くないこと、出来れば直ぐにやめるべきことだというなら、
ここに投稿することは愚かなことかもしれず、
その意味で邪悪な目論見を抱いているということにもなるのでしょう。
しかし、それでも嘘をいわないかぎりで、無害ではないか、などと思ってしまいますね。

なお精神的に依存する相手は少ないでしょう。その点では、自ら課さずとも、
状況からして厳しいと思います、己の不徳の外部への投影であれ、何であれ。

だからといって厳しいと認めることが甘いとは思えないというか、
無制限に厳しく、というのでは疑わしくて好めませんね。

もしかして絶えず、自己への最大の加圧を、とおっしゃるのでしょうか。
緩んだら締めるのか、ならば初めから締め続けるほうが良いのか、徹底的に締め上げるのか、
悲鳴があがるぐらい、どんどん厳しくしていくのか。
どうすべきか、厳しさの基準も、今一つ、判然とはしないようですし。

それでも結構厳しい面もあると自認したいですね。
人は十人十色の厳しさをもち、自己の律し方の程度といっても、
分野ごとの、分野への適性によるのかもしれませんしね。

ちなみにハンドルについては何か事情がおありかもしれないものの、基本的に管理のほうへと変更を申請すればいいでしょう。
わざわざ長文をありがとうございました、お大事に。

 
 

優しいままでいればいい それもまた必要な事と思えば
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