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(回答先: 提案 (金十字架さんへ) 投稿者 よろけるチーズ? 日時 2005 年 12 月 12 日 23:13:26)
つまらぬという裏には、良いものを持ちながらという言葉が在る。
愚痴であるが、そこに人としての弱さも観てくれれば良い。
あなたは人のあり方とはどうあるべきだというのだろうか。
普通という水準を求め続ける事なのだろうか。
あなたはあなた自信について何も語っていない。ただ弱さをみせているだけだ。
私と何も変わらない。
一方でこう思う事は無いか。
常に人は不安にまかせ、現実と向き合い、人と争い、体を痛めればよい人間らしいと思うか。
ストレス発散を常に隔離された世界に向け、激情のままに生きればドラマ通りの人間らしさとでも言うか。
本能に身をまかせ、愛と感情のままに生きるべきだというのか。
それについては意見の分かれる所であろう。
人の性質も一辺倒でなければ、理想主義、快楽主義とさまざまある。
私は理想主義者だと言えような。
愛とは何か。慈しみとは何か。情けとは何か。優しさとは何か。
それは厳しさではないかと私は思う。
ここでよく見かけるように、世の中には、「正しい」と謳って実は人を貶めるような策略で蔓延している。
子どもの頃には正しい大人になれ、間違いを糾せ、このような人間になるなと大人はよく育ててくれたものだ。教師は生徒に政治家や評論家にだけはなるなと言った。
人とはいつどこでどうして誤るのか。子どもの頃に大切だと教えられた心というものは大人になると昼夜逆転するとでも言うのか。
神秘的な能力というものが果たしてあるとして、それは特定の人間のみが保有するものだとするのは誰か。誰もそんな事言っている者はいない。
そんなものないと誰かが囁いたのか?
神秘的な力というのは、ありのままの自然の営みの中にある。起きる事、目を覚ます事、発言する事、触れ合う事、慰める事、笑い飛ばす事、助け合う事、分け与える事、休ませる事、寝かせる事、社会に生きる全ての人間が出来る事である。
人がそうした趣に生きる事をバカらしいと感じるまでには、幾つかの理由があろう。
窒息寸前までに切り詰めた、機械的時間で推し割った生産コスト削減化と過剰なサービス合戦の末路に何が残ったというのか。他者が生きるか自分が死ぬかの生存競争か。
神秘的なものとのつながりを自ら断ってしまったものには、こちらも何もかける言葉は無い。私が言う内容の全ては、それ以外の者に対してのメッセージと受けとってほしい。そこまでおせっかいはしない。
自然を介しては、人の信念であったり、純粋な思考と集中力というものを養うことが出来る。それは言葉によるものではなく、インスピレーションにより伝わるメッセージだ。それがもっとも人にとっては判りやすく、喜びである。宇宙はなにも特別な事を語っている訳ではない。光り輝く星を観て、奇麗だと思えばそれでいい。綺麗なものは綺麗だと素直に解釈すべきだが、そこに人は己を投影する。それが人間だ。感情的に動く人間であれば幾らでもわがままな解釈でどうとでも世の中をねじ曲げてみる事が出来る。天災という落語にそれはある。
機械も道具として使えばいいが使う人間は機械的ではない。生身の人間だ。強く生きねばいけないが、他人を貶めてまで生きよとは自然は語っていない。
自然とは、そこにただ在るだけである。ただ在るだけの事に感銘を受けるのが人間でもある。目を瞑り、自身もまた自然のままの素晴らしさの中に身を思い起こそうとする時、そこに宇宙は存在しているとようやく実感する。言い得ない深い感銘と感謝の念が押し寄せてくる。
人が人の厳しさを通り、その陰にある心というものに触れた時に人は深く愛を知る。愛とは万物の調和である。愛しきを思う念である。欠けた者もすべて丸く輝く。
あなたが神秘的と呼ぶのは、それは誰にしも在る豊かな精神を持つ故である。
出来ないといい可能性という言葉で捨て去る前に、やる意志もなく必要とも思っていないのであり、そうした人については私の意見は何も及ばないのであるから要らぬ節介はしないでいい。
無い事も証明出来なければ否定すべきでもないというのが科学的な姿勢であり、その精神的豊かさが医療の現場では最終的な人を救う手段である。
あなたに無いと言うならともかく、他人にもそれは無いと言うのはまたあなたがきめることではない。
私は人に対して厳しい意見を持つが、それは己が心底未熟であり、激情もまた内在している人間故のこと。それは認める事。
したがって反論される事は素直に嬉しい。
しかし時として、人の弱さは美しくも可憐に見える事も在るが、いつまでそう着飾れば本当の人のしあわせを見出す事が出来ようか。
人は時間をかけて人生で少しずつ学んでいくもの。
私は、ただここで自分自身に向かって愚痴っぽく話しかけているだけにすぎないのかも知れない。そう見える事を考慮して書いている。
ここで話す事が、なにか誰かの謀りごとの邪魔にでもなっているのだとしたら迷惑な話だろうが。そうありたいと願うためでもある。
人の情は、時として人の世の末期をただ招き入れるほどの、あいまいな迎合のサインにもなる。それは覚えておく事だ。
何が「追い込まれてかわいそう」なのか判らないが、「追い込まれてかわいそう」、だから何も伝えないというのはおおよそ誤りだと言いたい。
経験をしたいと願えば経験するのであり、出来ぬとハナから勘ぐっている者、または必要としないと感じている者には何も起こりえない。
出来ないではなく、出来る。なにをするにも打算的な人間にとってはまず判り得ない。
多数の"目"に触れる場所にて発言するは、それなりの思惑があっての事。
特定する誰かに対してのみ意見をしている訳でも、目を通すものすべてに節介掛けている訳でもないのだから、あなたがそれを痛く心配することもない。そこが私にはよく判らない。何か気に触るのであろうが、そういう事も書いていない。
非常にデザイナー気質の方であろうな。自分の考えを強く持つあまりに、世間を小さくしか観れていない。つまり背負いすぎている。
怒りそのものが悪いものだとは書いていない。が、怒りというものもよく判っていないだろう。
怒りは自然に例えれば焼き尽くす業火の炎、憤怒、怒髪点をつく戒めの憤怒の相がある。独自の体裁だけを守る小人の欲もまた怒りに容れるとすればそれは却下する。
欲は切りがないように、怒りや嫉妬なども欲が生んだ欲。積もり積もれば人をかみ殺すまでに発展する。
それが必要か。怒りはどこまでが良く、どこからとどめれば良い?
あなたも多少なりとも怒りが悪い結果を生む事は知っているだろう。
怒る事より考える事だ。何故怒りを募らせる事が大事だというのか。
何故怒りを募らせる事が起きるのか。
あなたはそうした事について何も考えて居られないで、ただ、言葉のみに安堵し、それ以上の道徳がないと言わんばかりだ。
不安が在れば原因を追及するべきだが、問題解決の為にいつまで怒りは必要なのか。いつまで人を責め立てればいい?いつになったら和解する?
それよりまず誰かが笑い飛ばす事が大事ではないのか。
学べばいい事だ。
喜怒哀楽の言葉の意味する事は何か。あなたがそう信じたいのならそうすればいい。だがあなたは私にそれはどうなのかと意見された事には、私は意見が違うとしか言えない。説得するつもりも無い。しかし意見をまた愚痴としてレスという形にはなるが、書く事も良いと判断する。
それではあなたは、死後、天国と地獄があると信じるというか。
それと同じ事に気付かないかぎり判らないだろう。
怒りも地獄もこしらえるのは人間の弱さだ。
怯れて怯れずだ。
こんな莫迦らしい事をいちいち言葉で説明したくない。
だが、せっかくだから敢えて書かせて頂いた。
昔の武士はこういった。心とは天から地へ流れ落ちるものであると。その狭間に人は居てそのものの器が大きければなみなみと心は注がれると。
心とは所有するものではない。心とは常に空に漂う煙のように、揺らめく炎に観るように、常に自然に介在して在る。そして時折、それに気付かなくとも、進み往く道の中ではっと意識に与えられるものだ。心の大事は作用のことであり、感情との違いは、感情は思うがままに思案を巡らせる事により徒に不安、不信感、悩みをも抱え持つ所にある。散り往く木立に身を寄せ、自身の境遇の憂いを安らげる為に感情を歌としたのは平安の和歌であるが、若々しさという言葉から生まれたワカの本質とは違う。
心とは感情ではない。端的に喜びの意識喚起を促すものである。
前に紹介したパパラギ-ミュータントメッセージ-という本の中で、アボリジニはこうした事をいっている。
「人間は息をしていても死んでいるときが在る。怒りや自己憐憫に我を忘れ支配されているときだ」と。
いやいや、心とは何かである。
祭で大勢の人間がやる気を結束するのもそこに心があるからである。大勢が息を一つにするのも心である。わかるかね。
感情や激情で動く喧嘩祭は本来祭ではない。
人の生きている姿そのものである。一番身近な親しき者の、自分に笑いかける表情を思い浮かべてみればいい。喜怒哀楽の喜のみが人との仲をうまく取り持つという事を。
ネガティブであるかポジティブであるかもすべて心の作用である。人は全て自分を通して人に意味を与える。まず喜ぶことだ。
あなたはただ誰かに甘えたければそうしなさい。喜びとはただ他人から贈られるものだとは考えては居ないだろう。他人に寄りかかりたいのであればそう甘えればいい。
また甘える人間を育てたいならそうしなさい。その上であなた自身が何かを学べばそれでいい。
既にそれはこちらに対しての反論ではない。
あなた自身の問題とその思惑に対するものへ愚痴だ。
私のしあわせは、他人がしあわせであることだ。
私の不幸は他人が不幸であると感じて生きている事である。
みな心の安定を得る事、そして自然を通して人とのつながりを大きくする事。
不安や悩みという束縛を自らの手で抜け出ることである。
概ねこの意見は特定の誰かの為のものではなく、また私ひとりの独善的な意見でもなく、名も無きひとりの肉体を通して心に従うままにここに書き連ねるものである。
まさかとは思うが、この金十字架なる異名を私自身が喜んで使っているとは思わないでほしい。ただパスワードの関係で何かを書く場合使い続けざるを得ないだけの事である。だがそれでいいと思っている。
ここに集う人間はもともと何かを願って生まれてきたはずだ。
人を不幸にしようとして生まれてきた者が居るというのなら挙手を頼む。
なんと馬鹿な事。
人は自身に足りぬものを得んが為に死を覚悟して生まれてくる。
その生涯が短くとも長くとも、その者は自分たるものを持って生まれてくる。
そこには大いなる愛が根底にあり、心たるものが注がれ続けている。
それを忘れたように人をののしり、馬鹿にし合うもの。
つまらぬ、と私が言った所で個人の愚痴としてあなたは何故聞き流せない。
それも愛といいはるか。
それともなにかの思惑か。
つまらぬものはつまらぬ。
その裏、よいものはよい。
すべてがその狭間に在る。
とにかく枠を抜け出せねばそこに留まり終える。ただ自然の姿を客観しただけのこと。
清き水も留まれば腐る。
それがいけないとも何もいっていない。
腐ったものもいずれ流れる。
何故そんなに自信がないのか。
何故そんなに諦めに走るのか。
何故そんなに否定する事に長けているのか。
そのものたちへの何故が私を苛ますのだ。