★阿修羅♪ > 雑談専用16 > 955.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: Re: piyopiyoさんへ、日本は明治以来の貿易立国構想で第二次産業の世界的余波を受け流しましたが。 投稿者 piyopiyo 日時 2006 年 2 月 07 日 21:04:39)
http://www7.plala.or.jp/machikun/avecath1.htm
明治のなあなあ人事その2
マイエッセイのページへ
明治のなあなあ人事その1に戻る
ところで明治も中期になると、政府の要人もハタと困るようになった。世の中は安定し、もはや戦争や内乱はない。彼らは戦争の中から輩出してきたわけであるから、戦争のない安定した世の中では自分たちの後継者たる人材をリクルートする基準がなくなってしまったのである。
そこで考え出されたのが試験によって人材を発掘する方法であった。明治も中期になるとさすがに「なあなあ人事」も「薩長優先」の弊害が目立つようになってきたものその理由の一つであろう。(軍隊においては高文のような試験制度が整備されるのに先駆けて山本権兵衛が西郷従道の後ろ盾を受けて人事に大なたをふるっている)
明治維新により、階級もなくなり、結局試験をしてその高得点者を今後の日本の指導者層として教育していこう、ということになったのである。試験制度には情実は一切ないから、日本中から優秀な人材をえこひいきなくリクルートできる、というメリットもあった。難しい試験に通った人材は優秀であろう、という期待もあったであろう。さらには世の中が安定するとともに法の整備などによりまた社会が複雑化し、明治初期のように一人の有能な人物が何でもこなす、ということができにくくなり、若いうちから専門家した人材を育てていく必要性にもせまられるようになったのだと思う。
こうして明治の中期頃から試験による人材発掘が始まった。ところが皮肉なことにはこの試験によってリクルートされた人材が国家の中枢に上る頃になって日本の歴史は誤った方向へと向かってしまったのである。
司馬遼太郎氏の史観に従えば、そのターニングポイントは日露戦争である。1904年の日露戦争の頃はちょうど幕末の動乱でリクルートされてきた人材と試験によってリクルートされてきた人材の交代期であった。日露戦争の時の軍の人事をみるとそれがよくわかる。
たとえば当時50代になっていた軍司令官レベルの人材はほとんどすべて戊辰戦争を体験していた。東郷平八郎、大山巌、児玉源太郎、乃木希典、野津道貫等、皆戊辰戦争参加者である。乃木を例外として彼らはみな能力、度胸、風格等、抜群であった。(乃木は軍事的能力は劣っていたが、風格、人格においては抜群であった) そして彼らの下に30〜40歳代前半くらいの、試験でリクルートされ士官学校、兵学校で教育されてきた世代が参謀としてついた。
この組み合わせは絶妙だった。戦争で選ばれた決断力、風格抜群の人材を試験で選ばれた知的能力抜群の人材が補佐することになり、戦争をすることに関してはおそらく世界史上でも珍しいくらいの最良の組み合わせがたまたま実現したのである。日露戦争はまさにそんな絶妙な時期に起こったのである。
たとえば日本海海戦などでは風格抜群、強運の東郷平八郎連合艦隊司令長官に頭脳抜群の秋山真之(当時30代半ば)が参謀としてついた。秋山の立てた緻密な作戦を東郷がそのくそ度胸と運によって実践し、この海戦は世界史上類をみない大勝利となったのである。
しかし日露戦争以後、幕末の動乱を経験した世代が引退し、司令官レベルまでが試験で選抜された世代が指導者層となった大正期以後、日本はおかしくなり、ついに無謀な太平洋戦争に突入、日本が破綻したのは周知のことである。
軍人のみならず、政治家においても伊藤博文のように軍の暴走を押さえることのできる大政治家は試験世代となってからは現れず、結局は政治的にも軍の暴走には歯止めがかけられなかった。(政治の場合は試験のみならず選挙によるリクルートも重要であるが、これまた大正時代に入るとうまく機能せず、泥試合となっていった。かの”統帥権干犯問題”にしてももともとは政党間の政争の道具として犬養毅や鳩山一郎が考え出したパンドラの箱であったのは有名である。)
こうしてみると明治期前半期のなあなあ人事というのはすごかったなあ、と思う。「なあ、山縣」「なんだ、伊藤」で日本全体の問題が解決してしまったのだから。もし明治の最初から試験制度があったとしたら、彼らなあなあ人事によって政府要人となった人たちは片っ端から落第であったろう。大村益次郎ならば陸軍士官学校など楽々クリアしたであろうが、山縣有朋が陸軍士官学校の入学試験になんか通ったとはとても思えないし、伊藤博文が東大法学部を受けたらきっと落っこちていたろう。伊藤は頭はよかったらしいが、秀才性としては禁門の変で憤死した久坂玄瑞などと比べたら足元にもおよばないし、吉田松陰などからも「周旋の才はあるな」くらいにしか評価されていなかった。松蔭は草葉の陰から「あの俊輔(伊藤博文)が日本を代表する大政治家になるとは」とさぞびっくりしていることだろう。
明治初期は薩長出身以外の者は政府の要職にはつけなかったが、こうしてみると案外、幅広く公平に人材を求めようとしてあたらその採用基準を厳格にするよりは、かなり不公平ではあっても人を見る眼がある人が狭いけれども自分の目の届く範囲からこれは、という人間をカンで採用する方がよい人事となるのかもしれない。司馬遼太郎氏の「一町内で日本を作ってしまった云々」という言葉にそれを感じる。試験というのは案外本物の人材のリクルートには不向きなのかもしれない。
平和で平等な日本社会においては現在、試験で選抜された官僚制度がゆれているし、政治家は試験で選ばれるのではないが、二世三世でなければ若くして政治の世界には入れないようになってきている。晴れて政治家になってもある程度の当選回数を積まなければそれなりのポストにはつけなくなってしまった。他分野で業績をあげ、ある年齢になってから政治の世界に入ってももう何もできないだろう。(内閣官房長官までつとめて62歳で政治家となり、副総理にまでなった後藤田正晴氏が例外なのだ)
今は自民党も民主党も後継者不足だ。人材のリクルートの方法があらためて問われている時代なのかもしれない。
マイエッセイのページへ
明治のなあなあ人事その1に戻る