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(回答先: 考察者k氏の「想い」を忖度すれば...。 投稿者 如往 日時 2006 年 1 月 12 日 17:15:43)
如往さん、こんばんは。
如往さん>さて、人間の思考過程を概括すれば、decimal(十進法)もduodecimal(十二進法)もあるという多面性を許容しようとする一面があると同時に、binary(二進法)的な思考に偏った、つまり思考停止の状態に陥った側面があるでしょう。
残念ながら、上記文章も私には意味不明です。
“binary(二進法)的な思考に偏った、つまり思考停止の状態に陥った”とは、
binary(二進法)的な思考に偏った=思考停止の状態に陥った
の意味でしょうか?もしそうだとしたら、
“binary(二進法)的な思考に偏っ”ていても、それはとりあえず思考している訳で、“思考停止”している訳ではありません。
もっと細かいことを言えば、decimal(十進法)もduodecimal(十二進法)もbinary(二進法)で表現可能です。本質的な違いはありません。
揚げ足を取るつもりはありませんが、私は曖昧な文章は苦手です。
如往さん>【思考停止のデジタル二元論が息苦しい住み難い社会を作り出している気がする。】(考察者k氏)とは、杓子定規に「可」or「否」のbinary(二進法)的に裁断して問題に対処しがちな現代社会の狭量な風潮にたいして
如往さん>考察者kさんが懐いている違和感(閉塞感)の表出であり、そうした社会現象を説明するために肖像権の問題を例題に挙げたのではないでしょうか。
肖像権の問題が【思考停止のデジタル二元論が息苦しい住み難い社会を作り出している気がする。】という命題に対する例題である、
という位置付けは理解できました。ただし、適切な例題かどうかは私には判断つきかねますが・・・。
如往さん>ところで、考察者kさんの主張の趣旨は、【で、肖像権に限らず、現在の社会では「一部の人の意見によって、全ての人に自分の価値観を押しつける形の法律」が作成運用されている面が多くなっている。】(考察者k氏)・・・・・
如往さんにはまさに「釈迦に説法」でしょうが、
Kさんの言う【肖像権に限らず、現在の社会では「一部の人の意見によって、全ての人に自分の価値観を押しつける形の法律」が作成運用されている面が多くなっている。】という命題も、
命題論理的には「真」か「偽」かの2値しかありえません。
Kさんの主張する命題が真でも偽でもないなら、主張すること自体が無意味ですし、
同時に真でも偽でもあることは考えられません。
【肖像権に限らず、現在の社会では「一部の人の意見によって、全ての人に自分の価値観を押しつける形の法律」が作成運用されている面が多くなって“いる”】
のか
【肖像権に限らず、現在の社会では「一部の人の意見によって、全ての人に自分の価値観を押しつける形の法律」が作成運用されている面が多くなって“いない”】
のかどちらか、つまり、真か偽かのどちらかです。
人間の論理的な思考がそうそう簡単に「2分法」から逃れられるとは、私は思いません。
もちろん、命題論理ではなく弁証法的論理(正−反−合)を持ち出せば、このアポリアは乗り越えられる、という反論は承知しています。
Kさんの命題が「正」であると同時に「反」でもあるという止揚された「合」の立場を導くことは可能かも知れません。
しかし、弁証法的論理は、その「合」の立場に対しても(正−反)の命題が存在し得ますから、さらに一段上の「合」の立場を必要とし・・・
と無限の上昇過程を招来することになり、行き着く果てに極限が存在するかどうかは不可知です。
もし、極限の存在を前提とするなら、それは予定調和であり、
その予定調和を是とするなら、それこそKさんの言う“全ての人に自分の価値観を押しつける”ことによる“息苦しい住み難い社会を作り出”すものではありませんか?
マルクスがヘーゲル弁証法を「転倒し得ている(柄谷行人流に言うなら、遠近法的倒錯である、か?)」と喝破したことが思い出されます。
いずれにせよ、人間が(真と偽の)2分法的思考からそう簡単に逃れられるものか?、私には疑問です。
今は時間が取れません。一旦ここまでとします。では、また。