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(回答先: 文学は何より実践。最後の力ば振り絞って、集中力全開だべ。まちょこっとだでや、がんばってけらっしゃい! 投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 12 月 20 日 01:43:17)
竹中さん。おばんです。いやぁ寒い夜ですだ。
まんず推敲(すうこう)という領域だんべね。すかす、竹中さんの、長年つきあっている人の原稿を読んでやっている場面は
熱く濃いつきあいおばしているなぁと感服したんべ。
おら、まんずこれまで、薄いつきあいしかしてこなかったもんで、
おのれの人生を反省したんべ。
おら、劇団活動、舞踏団活動などやってきたんだけんども、やっぱ組織というのは、表面的なつきあいしかできなくて
つっこんだ関係を構成員とすると主宰者が嫌がるもんで
おら遠慮してきたんだわ。
つっこんだ深い関係をきりむすぶことができなかったもんで
昔をふりかえっても、なかなか小説のネタが出てこないですわ。
小説の役に立つのは、もっと広い世間様での社会経験だと実感しております。
市民社会での社会体験、職場での労働などが、小説の基礎になると思いますだ。
さらには恋愛体験、女との深い関係をどれだけつくり経験があるかだんべ。
小説はまんず女の姿態を書けんば、読者を引き込むことはできながんべ。
まんず来年は、「夜明け前」最後まで読了できなかったもんで、もう一度、読んでみますわ。
島崎藤村の文体を研究してみっぺと、思いますだ。
松本清張は、すごい人だんべ。
「砂の器」なんか、すごい構成力で、ぐんぐん引き込まれていきますだ。
来年なったら、清張の文体も分析してみますだ。
おら、最近、2冊ほど小杉健治の小説、読んだんですけんど
この小説家の文体はすっきりしていて、いがったですだ。
松本清張のように社会派ですだ。
石川啄木の評論は、すごがったんですけんど、小説は自意識過剰が出てしまいましただ。
これはしかたがないですだ。
詩人から出発した吉本隆明も、批評・評論はすごいんですけんど、小説は書きませんでした。
やっぱ瞬間を動物的感覚で嗅ぎ取る詩人の犬の臭覚は、批評と評論に適応していきますだ。
詩的言語は瞬間の言葉化であり
小説という散文は牛のよだれですけん。
ひたすら時間をかけて待つ、忍耐の時間こそが散文ですだ。
有島武郎「或る女」は来年読んでみますだ。
おらも女の姿態を細密に描写できるようになりたいもんで、文体を研究してみますだ。
女を書けることができれば、小説新人賞がとれますだ。
石川啄木は小説で女を書けなったから、小説家としては失敗したんですわ。
読者という存在は
寺山修司演劇の根幹である「観客論」を経験してきたもんで、
来年から「小説の観客=読者」の存在領域を自分なりに、まさぐっていくべと
思っておりますだ。
竹中さん。励ましありがとうごぜぇますた。
おらもいよいよ推敲の領域に入りますだ。
まさに「ゾーン」ですだ。
小説の実践とは、文がおのれの身体から出てくるのをひたすら待つという
辛抱と忍耐の時間ですだ。
まんず小説の勝負は竹中さんが提示しているように
リアリティ実感をどう読者様におよぼすことができるかですだ。
まさに建設者としてやるしかないですだ。