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(回答先: どのような消費をすべきか? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 12 月 07 日 22:15:25)
ワヤクチャさん、勉強になります、ありがとうございます。
>労働者が経営に参画しても作る商品が環境破壊型の商品であれば問題は解決しません。
全くそのとおりですが、同じことは消費者についても言えます。つまり、消費者が経営に参画しても、要望する商品が環境破壊型の商品であれば問題は解決しません。
財を消費する消費者の方が、生産者よりも環境に配慮するということは十分あり得ますが、
消費者は環境に配慮した商品を購入したからといって必ずしも環境から直接の恩恵を被れるわけではありません。農産物にしても、安全なもの(体に)が安く手に入るのなら海外から輸入すればいいではないか、という主張に同調する消費者もいると思います。生産者にまかせておけないと同様、消費者だって過信することはできません。
>私は人間の行動の中で消費行動こそが問題であると言いたいのです。
全くそのとおりだと思います。
今のような経済になったことの責任は、消費者にも生産者にもあります。したがって、両方が、環境に配慮した、「自覚的」な行動主体にならなければならないと思っています。
>しかし、これは実際には対立するのです。
>消費者はいいものを安く買いたいし
>労働者はなるべく高く売りたいのです。
>1人の人間は消費者である時はいいものを安く買おうとし、
>労働者である時は高く売ろうとするのです。
>市場では「万人の万人に対する闘争」が基本です。
なるほど。消費者と生産者は同一人物であっても行動する時には違うのですね。納得です。
>経済を改善する為には消費者主導の方がいいと私は考えます。
生産者にこだわっていろいろ言いましたが、
私は基本的にはワヤクチャさんのおっしゃる消費者主導ということに賛成です。
ただ、生産者も捨てたもんじゃない、ということを言いたくて、生産者についていろいろ書いた、ということです。
まあ、こういうふうに、消費者はとか生産者は、とかって論じていた時点で私も両者を区別して考えていたわけで、消費者と生産者を分けて考えるべきではない、との私の意見と矛盾していたんですけどね。
>消費者は使用価値を求め、労働者は交換価値を自分が作るものに付与するのです。
「消費者は使用価値を求め」る、という点が問題です。使用価値と環境価値は必ずしも一致しません。ですから、先にも述べたように、消費者だって過信することはできません。
日本型自営業についての内橋氏の論について、
>この論は消費の中身(従って労働の中身)にまで踏み込んでおりません。
>その事こそが問題なのです。
おそらく昔の日本型自営業は理想的なもの(つまり労働の中身もそこそこよいものだった)だったのでしょう。
内橋氏は、「匠の時代」でそういう古きよき時代の企業のあり方を語っておられるのだろうと推測しています(まだ読んだことがないので・・・)。
そう推測するのは、2005年10月17日の 読売新聞には内橋さんのこういう言葉が載っているからです:
「高度経済成長を支えた無名の技術者を描いた『匠(たくみ)の時代』は、現場で汗をかいた人を軽んじ、技術だけをあがめる政治家や学者への戒めを込めたものです。新しいシリーズを勧める編集者もいますが、企業の現実を知ると意欲はわいてきませんね。」
(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/hagukumu/anokoro/20051017us11.htmより)
日本は、以前はモノ主体の堅実な経済だったのだと思います。それが、バブルの頃を境に、カネ主体の、錬金術や株価の上昇に熱を上げる経済に変わってしまったのではないかと思います。
もちろん、1960~70年代に公害が大きな問題となったのは事実ですから、バブル前も、経済が堅実であったとしても、作られていたモノは環境によくなかったわけですが。
商品の価値基準が、そのモノ自体がもつ価値よりも、金銭的価値(カネをどれほどもたらすか )をより重視する方向に変わってしまったのではないかと思います(生産者サイドから見た場合)。生産者の職人精神(いろんな意味でよいものを作ろうとする精神)も薄らいだと思います。
生産者、消費者の別なく、モノそのものの価値への愛情を取り戻す、といった根本的な意識改革が必要です。
例えば、御飯を食べる前に手を合わせて感謝をする、というのも、モノへの愛情の一種と言えると思います。
(余談ですが、愚民党さんの投稿「人工と土」http://www.asyura2.com/0510/idletalk16/msg/267.htmlの中の、
「種と野菜ですがまんず自分にとっては、種を土に植え芽を出すのが新鮮な発見でした。やはり八百屋で買ってきた大根をそのまま植えたほうが、葉っぱの成長が早いようです。
来年が楽しみです。食べるときには感謝して食べようと思います。
大根は太陽さまの栄養を吸収し、生きる過程を楽しんでいだたければ、幸いであると思っております。
そういえば中学校の頃は昼の弁当を食べるとき、まず手を合わせ感謝してから、食べたことを思い出しました。
おらもこれから食べるときは、感謝の手を合わせてから食べようと思います。」
には、しんみりとさせられました。私も感謝の心を忘れていました。)
モノに感謝する。作ってくれた人に感謝する。
モノを作ることへの誇りを取り戻す。
モノ作りをする人を正当に評価する。
(そういえば、「日本の論点2006」(文藝春秋)の中で、内橋克人氏が、『正当な労働の報酬』を軽侮させる、というのも、日本に新自由主義改革をさせて株価資本主義に引きずり込むにあたって用いられた戦略だ、という意味のことを述べていました。)
このように、モノやモノ作りへの尊敬、感謝の念を再生させることによって、カネ主体の経済からモノ主体の経済へと転換しなくてはならないと思います。
堅実な経済への転換(カネ主体の経済からモノ主体の経済へ)と、環境に配慮する消費者・生産者の増加、この二つが起これば、循環型経済社会に一歩近づけるのではないかと思います。最終的には、自然の中に人間の経済を組み入れる(経済活動を自然の自浄能力、循環の範囲内に収める)ことが望まれます。(今確認しましたが、ワヤクチャさんが「自然を破壊したものは何か?」http://www.asyura2.com/0510/idletalk16/msg/237.htmlでおっしゃっていた「自然の中で生かされている経済」という言葉の方がいいですね)
・協同組合について
>今の株式会社よりもはるかに多くの生協が林立する事になります。
経済学で言うところの、「独占的競争」状態に近いことになるのかもしれないと思いました。違うかもしれませんが。また考えてみます。
>消費者が自分が欲しいものを手に入れる為に人を雇って作ってもらっているという関係になるのです。
オーダーメイドみたいな感じですね。
コープの総代会と理事会、行ってみようと思います。
>何でもかんでも思いつきで作る生産者主導型の経済とは方向が逆なのです。
なるほど。
>生産者主導型の市場経済に対して消費者主導で変革していくという構図でお考えいただけましたらと思います。
生産者主導というより、経営者、株主主導、もっと言えばカネ(それも投機的マネー)主導みたいな気がしますが、まあいいです。
>協同組合の原理は単純なものなので、原理を把握していただき、市場経済における役割をご理解いただきたいです。
その方向で勉強します。
可能なるコミュニズム、近所にはおいていませんでしたが、インターネットで調べたら在庫はあるようなので、近日中に手に入れて読んでみます。