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(回答先: 共同体の善と悪 投稿者 愚民党 日時 2005 年 12 月 08 日 06:36:16)
愚民党さんへ。
>論理を思索するのではなく、マジックのアイデアが出てくるのをひたすら待っているといいますか・・・
思考するということは、「我思う故に我あり」と多くの人が感じているように、誰しもが自分は思考していると思ってはおりますが、実は、回りの環境や状況で思考させられているというのが多くの人の実態だと思っております。
もし思考を操っていると言うなら、その思考のオンオフを自由自在にコントロールすることができるはずですが、多くの人は、溢れ出す思考を止めることさえできません。
もしある特定のことへの思考を止めようと思うと、次は違う方向へ興味が行き、違う思考をし始めるだけです。
精神世界の情報を調べると、思考は自分から出ているものではなく、絶えず空間に漂い、それをキャッチしているのが人だと言われております。それは先端科学における量子物理学においても見受けられる発想です。
そしてそのキャッチを的確に、膨大な量を溜める能力がある者が、それに特化した情報処理を行うことができるということなのでしょう。
人が多種多様な欲求や興味により、「思考」のキャッチを多方向へ拡散してしまえば、それだけ特定の思考エネルギーの蓄積を鈍らせる結果になるのでしょう。それには思考をコントロールする技術を磨くことが必要となり、思考に振り回されず、思考を使うことや思考を沈黙させることの能力が必要となるのでしょう。
愚民党さんがなぜ思考エネルギーが衰亡してしまったのか解りませんが、小説を書くという目的のために、上記のように小説以外のことには思考エネルギーを注ぎ込まないようにしているのではないかと、勝手に推察もできるかもしれません。
>どうも自分は王権と共同体を捨て、人間修行に出たブッタに、個人と単独を感じ、
>「人を殺してはならない」教育を感じてしまいます。
ブッダが、教育的なことを言うとしたら、「人を殺してはならない」というよりも「人を殺すことは無意味だ」とか「人を殺すことによって執着している“何か”を捨てろ」という意味において使われたものだと思います。
大悟したブッダは、その全面的至福状態である大悟の境地を人に伝えたに過ぎず、また、もし教育的なことを言うとしたら、大悟への道を教えたに過ぎなく、そう考えると思考や欲求や執着等の対象物にではなく、その思考・欲求・執着等そのものを捨てることを語ったのではないかと思われます。
※少し俺の思考も疲れが生じてきたみたいですので、そろそろ終息したいと思っております。「退屈」や「執着」「第4自然」等については、またどこかで機会があったときに語り合いましょう。。。
ではまた。