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(回答先: それは、一側面のみを取り上げたものだと思っております。 投稿者 BB 日時 2005 年 12 月 06 日 06:08:27)
BBマークさん改めBBさん、おはようございます。
どうも自分は自分勝手に読み取り、自分勝手に返信する癖がある
妄想の人間であることを、了解していただければありがたいです。
1、思考する者ではなく、終わってしまった人間
阿修羅で自分が終わってしまった人間であると感じているのは、思考エネルギーが衰亡し、ささやかに残った
エネルギーを論理思考ではなく、小説ドラマのシーン作りに注ぎ込んでいるからです。
まず全体を深く思索できないばかりでなく、思考のベクトルが変わってしまいました。
論理を思索するのではなく、マジックのアイデアが出てくるのをひたすら待っているといいますか・・・
妄想の商品であるがリアリティを読者に感じさせ、読む時間に没入させていくのが小説という商品であると思います。
小説という商品をつくるためには、細微を言葉で描写せねばならず、なによりも読者に納得していただかねばならず
登場人物起動の整合性が求められます。固体発生と事件発生の必然性を組み立てるといいますか
展開の流れがおかしければ、小説は欠陥商品となり、読まれることはありません。
カオスエネルギーでこれまでやってきた自分にとって、必然性の構築は、どうも大変な作業です。
自分は論理を思索することはあまりできなくなりましたが
転載投稿者として阿修羅では生存していくと思っております。
2、共同体の善と悪
BBさんから「それは一側面である」と批評されたのは納得です。
立体の箱は六面体で構成されておりますから、おそらく現象も六面があることを
BBさんの文章から学習しました。
人間と共同体社会の現象を分析する場合、正面、右側面、左側面、裏面、下面、上面、この
六方向からの思考照射が必要であることを学習しました。
中東の砂漠から発生したユダヤ教、そのユダヤ教の旧約聖書から発生したキリスト教とイスラム教は
もろ共同体生存のための<猿と人類>群れ存続のための掟であると妄想しています。
砂漠でいかに、共同体が生存するかをめぐる教典ですから、強靭です。
どうも自分は王権と共同体を捨て、人間修行に出たブッタに、個人と単独を感じ、
「人を殺してはならない」教育を感じてしまいます。
3、人類の退屈
戦国時代という死闘を終焉させた徳川幕藩体制で、人間の退屈を救ったのが祭りと歌舞伎であると言われております。
農村でも祭りがなければやってはいけません、民は日常の退屈さに沈没し、労働意欲が保持できたのは、祭りの興奮と
楽しみがあったからであると思います。その頃の娯楽も自給自足であったと思います。
その頃のヨーロッパ、王権と貴族の楽しみは戦争であったと思います。
退屈しのぎのために、王権による殺人権を展開したのがヨーロッパでの戦争であったと思います。
またヨーロッパの王権と貴族は伝統的に演劇が好きで、パトロンとなって保護してきたのは、退屈しのぎのために
有効な装置であったからであると思います。
<人類の退屈>これも、人類と人間にとって、根源的で重要な命題であることを
BBさんから学習しました。
人間は動物でありますから身体エネルギーがあります。
さらにやっかいなのは人間に思考エネルギーがあることだと、納得しました。
人間が脳回路に費やすエネルギーは、多量であると思います。
毎日、ごはんを食べ、脳回路展開のためにと多くのエネルギーが消費されていきます。
自分は今まで、人間とは動物である、その動物的エネルギーのみに注目してきました。
BBさんの文章を読んで
「そうか、人間とは思考エネルギーがある!」と教えられました。
思考エネルギーと、人間の動物的エネルギーは連関し、そしてイメージエネルギーもあります。
未来と過去をイメージによってシュミレーションするのが、イメージエネルギーだと思います。
イメージを発生させる動物としての人間。
また人間身体には感覚というセンサー装置が情報読み取りして起動しております。
外部と身体内部を連関させリンクさせていくのが、情報制御装置の脳回路にある電気神経通信。
思考エネルギーがあるから人間とは、やっかいな存在であると納得しました。
人間の思考エネルギーとは退屈すると死んでしまいますので、多様な装置が生み出されてきたのであると思います。
5、人間は執着システムを持った生物
これもインパクトある言葉でした。「人間の根幹には執着がある」
今まで自分は、政治とか社会を一般現象としてしか考えてこなかったと反省しました。
「個別人間は個別の執着システムを持っている」は、小説の人物を設定するとき、その登場人物が
何に執着しているかは、読者に具体的に説明できます。
人物設定の有効な方法をBBさんに教えていただきました。
小説形成論、演劇形成論、ドラマツルギー方法論においても
個別人間の執着システムはあまり解明されてこなかったと思います。
システムとは事業かもしれないとも思いました。
天皇制システムもひとつの事業体であり、日本という共同体社会の執着システムであると思います。
個別国家は個別と独自な執着事業を持って成立しております。
小泉純一郎は結城純一郎に執着し
経団連奥田会長は<偽造構造設計=最終資本主義の誘惑>に執着する構図を、ふと妄想しました。
自分は「おらが持っている執着システムとは何だっぺ」と、自己分析する必要を感じております。
心理分析から人間精神を解析するより
その人間が持っている執着から解析した方が、人間を分析できると思いました。
人間は他者におのれが何者かを説明する前に
おのれにおのれが何者かを説明できなければ、生存できません。
執着システムとはおのれが何者かをおのれに説明するための装置であると思います。
幼児から老人に至るおのれの歴史を貫徹しているのが執着システムかもしれません。
自然を加工し生存するのが人間ですから、猿が人間に至る労働の役割としての手その把握力、
執着とは何者にも譲れないおのれが把握することのできる一握の世界かもしれません。
執着システムを持ち生涯において貫徹する歴史的存在の動物、共同体社会において単独を保持するための執着システムは
来年の課題として探求していきたいと思っております。
4、自己言及の第4自然
BBさんの想定する第4自然と自分がイメージする第4自然は、違うと思います。
阿修羅のおもしろいところは、共同主観を形成する場所ではなく、個別主観が展開されていく場所にあると
思っております。
自分は思考エネルギーは衰退してしまいましたが、イメージエネルギーはまだ残っているので
第4自然に関しましては、来年の自己言及の課題として、まさぐっていこうかと思っています。
BBさん。ありがとうございました。