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(回答先: 人が人を殺すことをどう考えるか 投稿者 愚民党 日時 2005 年 12 月 05 日 07:35:37)
愚民党さんへ。
BBマークです。急にパソコンがショートし、急遽新しいパソコンに変えたところ、新規投稿ができなくなり、名前待ち版で登録し直しました。
で、新しい名前がBBです。
>自分はすでに阿修羅では、思考する者ではなく、終わってしまった人間ですが自己言及してみます。
>カオスになることをあらかじめお許しください。
「思考する者ではなく、終わってしまった人間」というのは、少し意味がわかりません。あまり深く思索しようとはしなくなったという意味でよろしかったでしょうか。それとも文字通り、自分は思考する者ではないという意味でしょうか。
>人間という存在は類的存在だと思います。社会と共同体なしにはありえない存在で、労
>働が社会的物流に属しております。
>貨幣なしには生存できない環境に属しております。
>人が人を殺すことは、社会的な線と共同体の線を、自ら切断することであり、類的存在
>しての人間を否定してしまうことであり、個人が人間社会で生存していくためには、人
>を殺さない方が、おのれの生存確率が高くなります。
>共同体社会で生き抜くためには、おのれの生存のためにこそ、人を殺さないことは、個
>人が生存をするための第1条件になると思います。
ここで意図されている社会と共同体は、人間が“生きる”為の道具として便利なのであって、必ずしも必要ということではなく、社会と共同体が無くても人は生きていけると思っております(例えば、無人島に漂流しても長い年数生きていた人など)。
ただ、我々の多くが社会と共同体に対して極度の依存症になっているために、それがないと生きていけないと感じ、そして生きていけない人が多いのでしょう。
また、「人を殺さないこと」が、社会と共同体で個人が生存するための第1条件でもないと思います。社会と共同体の中にあっても、自分が生存するためと感じれば、人を殺すことだってあります。正当防衛による殺人は、法律でも違法ではありません。また違法行為(反社会志向)であったとしても、自分が社会と共同体で生き抜く為に人を殺す例も多々あります。社会的地位や、財産を守るために起きた殺人事件などは世の常です。
ただし、人が“生きよう”とすることが、生きる人間の第1条件となっているのは、現状だとは思っております。
ただ、自分の肉体が、相手からの反撃や死刑などで殺されるかもしれない(生きることができない)というリスクを背負いながらも、人を殺す例も見られます。
それは、自分の肉体を生きさせようという欲望よりも、人を殺すという欲望を満たさないと死んでしまうかもしれない自分の中の“何か”を生きさせようとしているからだと思っております。些細な口論などで、人を殺すケースも、自分の中に自己同一化して執着する“何か”(自尊心・思考など)を生きさせようとするために起こることだと思います。その自己同一化した“何か”が生きる為には、社会共同体に適応しないことを厭わないのも人間に限らずすべての生きる存在ではないかと思っております。
そこには、社会共同体に適応しないことで死ぬ“何か”と社会共同体に適応することで死ぬ“何か”のせめぎ合いが常に起こり、より自分が執着する“何か”を生き延びさせるために、他者への攻撃と自己への抑圧をただ繰り返しているのだと思います。
つまり、社会共同体というのは、生きる為には、人にとっては善にも悪にもなり得るものであります。それを、社会共同体を存続させることが“善”だと前提させて、その存続の為に人を殺すことは“悪”だというのであれば、それは、一側面のみを取り上げたものだと思っております。
>しかし現実におきましては、
>戦争の反省から成立し憲法第9条がある日本でも、テレビでは「殺人事件」のドラマばかりです。
>ここでは毎日、「殺人の方法」が映像として、電波放送されております。
>思考と感覚を奪い、時間を奪い、映像の奴隷にするのですが、ひとときの放心した奴隷
>の快楽を視聴者に与えます。テレビは家庭に普及して以来、視聴者を商品の奴隷として
>コントロールしてきました。
>「殺人事件」のテレビドラマは無料で、家庭のテレビ受信機の画面に電磁波のごとく放
>射される商品であります。
>すべては商品宣伝のためであります。ゲーム資本主義は「殺人の方法」を謳歌しております。
これも、社会共同体に適応することで抑圧された“何か”を生きさせようとすることで、それを擬似的に体験して、欲求を満たそうとしているのだと思います。
そこをうまく刺激して、その抑圧を増したりさせながら、色々な洗脳の道具にも利用されているのでしょう。ただし、それは自己の“何か”に対する「執着」にも問題の一端はあるでしょうし、生きる人間とはそうした執着システムを持った生き物だとも思っております。
また、思考は止まることができず、退屈から逃げるために、常に新しい思考対象を求めて慌しく動き回っており、それは無(死)から逃げていると言ってもいいのかもしれません。そしてTVや映画や小説などで新たな情報等を探して彷徨い続けます。
しかし実は、本当に幸せ(満足)だと感じる瞬間は、その内容に完全にのめり込み、思考が殆ど無く、放心状態になった時だと気づきます。
それは無(死)から逃げながら、無(死)を追い求めているという滑稽さにも気づきます。
>「第4自然」をどう考えるか
「第4自然」については、愚民党さんの意図されている内容がよく把握できませんでした。たぶん俺の想定した「第4自然」と、愚民党さんの想定している「第4自然」とが食い違うのではないかと。もしくは愚民党さんの想像が豊か過ぎて、ついていけていないのかも。
>BBマークさんの根源的な質問には感謝しております。
>「第4自然」という言葉も大いなるインパクトがあり感謝しております。
>BBマークさん。ありがとうございました。
(余談としての思考。。。)
俺に対しては“感謝”はいいですよ。(笑)
俺は何も差し上げたつもりはありませんし、何も期待はしておりません。それを「感謝する」ということは愚民党さんが感じたことであって、俺に対してのものではなく愚民党さんに対するものだと思います。また、ある特定のことに感謝するということは、それ以外のことには感謝していないという比較が生じます。もし仮に愚民党さんが全てのことに感謝している(全てが感謝)というのでしたら、感謝という言葉そのものは生じることもないのでしょう・・・・。と、非常におせっかいな余談でした。。。(感謝を欲しがっている人に差し上げて下さいということです。)