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人が人を殺すことをどう考えるか
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 12 月 05 日 07:35:37: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: もちろんそれは理解できてはおりますが、割り切れないという思考について。 投稿者 BBマーク 日時 2005 年 12 月 03 日 22:49:33)

BBマークさん。おはようございます。

「第4自然」に興味がわきました。やはり「第4自然」は、地球生態系を人工として造成した人類環境の「第3自然」に
参入するエイリアンとして、存在性を感じました。

BBマークさんに思考エネルギーを感じました。

自分はすでに阿修羅では、思考する者ではなく、終わってしまった人間ですが自己言及してみます。
カオスになることをあらかじめお許しください。

1、人が人を殺すことをどう考えるか

 人間という存在は類的存在だと思います。社会と共同体なしにはありえない存在で、労働が社会的物流に属しております。
貨幣なしには生存できない環境に属しております。
人が人を殺すことは、社会的な線と共同体の線を、自ら切断することであり、類的存在しての人間を否定してしまうことで
あり、個人が人間社会で生存していくためには、人を殺さない方が、おのれの生存確率が高くなります。
共同体社会で生き抜くためには、おのれの生存のためにこそ、人を殺さないことは、個人が生存をするための
第1条件になると思います。

労働社会におきましても職場で同僚とケンカをして、相手の身体に損傷を与えれば、職場という共同体にいてもらっては
危険であると解雇されてしまいます。

現実社会におきましては、古代から殺人事件や戦争があります。
ゆえに「人が人を殺す」という命題は、人類存在にとって、思考せざるえない根幹でもあります。
狼とか熊とか、単独で生存する動物は、威嚇はしても、おのれと同じ種を殺すことはないと読んだ記憶があります。

おのれと同じ種を殺すのは猿と人間のみではないでしょうか・・・
猿は一族の王を決定するとき、新参の王が古参の王を打倒し、一族のメスを支配したとき
一族から追放した古参の王の赤ちゃんを殺してしまい、メスが新たなる子供をつくる発情をうながし
おのれの遺伝子を継承した子供づくりに励むという物語を演劇で見たことがあります。

猿と人間は、おのれが生存するために一族という共同体を形成するのが、動物的本能です。
猿と人間は類的存在であり、類の社会においてしか生存できない種であると思います。

王は同じ種を殺すことはあるが、王に支配され属性として生存している者に殺す権利はありません。
王の権力に依存する共同体の属性が、共同体を構成する同種を殺せば、一族が崩壊し、群れが維持できなくなります。
「人が人を殺す」ということは、暴力装置としての権力という命題になってくると思います。

猿と人間という動物種族のみに、一族を統率する<王=権力暴力装置>が発生したと思います。
これは人類の現代におきましても
国家権力には戦争という殺人権があるが、国民には殺人権がなく殺人は第1級の犯罪で、死刑となります。
おのれの生存に危害を加える者からおのれを防衛するために、やむえなく正当防衛の事故として
相手を殺してしまった場合は、裁判で正当をめぐって審議され、考慮されます。

自分は類的存在の人類、ありのままの人間が群れ或る共同体を形成する場合、暴力装置が発動するのではないかと
思っております。ゆえに人間には、「人を殺してはならない」とする教育が必要になってきます。
殺人社会になれば共同体と社会が崩壊してしまうからです。

しかし現実におきましては、
戦争の反省から成立し憲法第9条がある日本でも、テレビでは「殺人事件」のドラマばかりです。
ここでは毎日、「殺人の方法」が映像として、電波放送されております。
殺人はドラマツルギーを興奮させ、視聴者を興奮させ、視聴者をドラマの属性と奴隷にしていきます。
映像ドラマというゲーム展開に視聴者を騙しはめるわけです。
思考と感覚を奪い、時間を奪い、映像の奴隷にするのですが、ひとときの放心した奴隷の快楽を
視聴者に与えます。テレビは家庭に普及して以来、視聴者を商品の奴隷としてコントロールしてきました。
「殺人事件」のテレビドラマは無料で、家庭のテレビ受信機の画面に電磁波のごとく放射される商品であります。
すべては商品宣伝のためであります。ゲーム資本主義は「殺人の方法」を謳歌しております。
家庭におきましてはすでに、「人を殺してはならない」という倫理教育が崩壊しております。
ゆえに家庭で殺人事件が起動します。
そしてその殺人事件をテレビは視聴者の興奮と好奇心を満足させるために、ワイドショーで劇場展開していきます。
「ショーほど素敵な商売はない」となります。

自分もホラーサスペンスという分野の小説で応募しようとしているのですが
「暗殺」「アタック」「攻撃」という暴力発動は、ドラマの方法として、どうしても出てきてしまいます。
エンターテイメント小説の場合、「人を殺す」とか「セックス」は、小説を人間のドラマとして構築する場合
どうしても導入していまいます。
「暴力」と「セックス」は、書くものを興奮させ、読むものを興奮させるからであると思います。
興奮するように、テレビで放心状態の過程で刷り込まれてしまったからであると判断しています。

「人が人を殺すことをどう考えるか」をこれまで自分は、あまり考えたことがありませんでした。
自分はこれまで、おのれがこの日本という共同体社会で生存するため「人を殺してはならない」と
自分を戒めてきました。おのれの遺伝子がおのれの死という最終まで生存するという
「利己的遺伝子」の本能からの呼び声でありました。

「人を殺す」という殺人は暴力装置を握る<権力=王>と
<権力=王>の属性である民衆とは形態が違ってきます。別枠で考える必要があると思っておりますが
人類と殺人は古来からの重力ある思考の課題であり、
人類は<権力=王>と<殺人>から永遠に脱皮できないのではないかと絶望してしまいます。

人類とは何か? 人間とは何か? という命題に、関連して重力ある問いです。

BBマークさんの根源的な質問には感謝しております。
自分が小説を書くうえでも、「人が人を殺すことをどう考えるか」という課題は
これから探求していきたいと思います。


2、「第4自然」をどう考えるか

人類の「第3自然」が、いまだ大きく地球生態系とのバランスを崩すまでに至らなかった頃の思考者は、
人類と社会と共同体を含めた人間の存在を探求していたと思いますが
もはや21世紀の思考は人間と人類を相対化せざるをえない場所まで来たのであると思います。

「人類とエイリアンと陰謀」が思考に登場したのは、「第4自然」を想起せざるえなくなったのは、
人工として造形してきた「第3自然」が自壊寸前の究極頂点に至ったからであると思います。
それはコンピュータが日常となり、加工する人間の労働がコンピュータとオンラインというネットワークなしには
ありえないコンピュータとオンラインを基軸にした労働社会になってきたからであると判断します。
コンピュータによる設計社会です。

データーもパソコンのファイルから印刷し、そのパソコンはサーバーとオンライン接続したコンピュータです。
人類の労働はデジタルが基軸となり、「第4自然」に接近する、基軸を造成し、この基軸革命は
現在、人類社会の日常を形成しております。
そしてロボットも家庭へと普及する前夜情況です。

「第4自然」という言葉も大いなるインパクトがあり感謝しております。
宇宙の波動を感じました。

BBマークさん。ありがとうございました。


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