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(回答先: Re: 福岡正信の自然農法について 投稿者 日 日時 2005 年 12 月 06 日 02:02:00)
日さんへ。
>この世がパーフェクトな存在である神の創造世界である事を発見したという所からのス
>タートである彼の立場では、自然農法は人工によって荒らされた自然を元に戻す事を段
>階的に進める農法という事になります。
福岡正信氏の立場になることはできないので、あくまでも想像でしかなり得ませんが、自然農法が、「人工によって荒らされた自然を元に戻す事を段階的に進める」ということを意図してなされたのではないと思います。
もし彼が、「この世がパーフェクトな存在である神の創造世界である事を発見した」とするなら、すべては変えようとしなくても、現状のままでパーフェクトな神の創造世界の状態であるはずです。
彼は若いときの光明以来、何も心配することもない至福の境地に到達したはずです。それは現状を変えなければならないというものは一切なく、不安に感じていた世界の一切が虚像(幻)であると心から認識できたのではなかったでしょうか。
彼は全ての世界が分離しているのではなく、彼自身も含めすべてはひとつの「無」から投影された現実として認識し、個々の生命体(特に植物)の意識まで繊細に感じられる認識にまで至ったのではないかと想像します。ゆえに彼は、自然に対しては、“自然に突き動かされながら”彼の思考や肉体が、そうせざるをえなかったというのが現状だと思います。彼の自己は、それでも“無為”の状態であったのだと思っております。
仮に彼が、自然農法が何かの目的をもっているとして発言するとしたら、その質問者に“突き動かされながら”彼の肉体と思考が、そう発言することはあるかもしれません。
彼の思考や肉体が、自然に関与してしまったのは、たまたま彼が植物検査課に勤めていたという経歴から、そちら方面に思考や肉体が突き動かされているのであって、彼の境地をあこがれ、彼のようになろう、光明を得た人間になろうとして、彼のように自然農法を手がけても、それは全くの方角違いな行為だと思っております。
彼のようになろうとするのではなく、光明を得た上で、なおかつ自然に(無為に)自然農法を始めたとしたら、それは彼の自然農法に近いのかなあと想像いたします。
>愚民党さんのいわれる第三自然については、その前に人類がその資格を有するかどうか
>を考えてみたいと思います。
誰がその資格を与えるのですか?
例えば神は人間に、それができる行為と、それができる思考と、それをもとめる欲望を与え、なおかつ目の前に人参をぶらさげ、しかし人間には資格がないと言っているということでしょうか?
まあわからないでもないですが、やっかいな神ですね(笑)。
>第四自然については半村良の処女作「収穫」。アーサー・C・クラークの「幼年期の終わ
>り」を思い出しました。もしも未読であればお勧めします。
未読です。欲求が起きたとき、是非読んでみたいと思います。