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(回答先: 種を撒いて野菜や果物を育てるということについて 投稿者 BBマーク 日時 2005 年 12 月 02 日 13:54:34)
とかいう話になると正解なんて見つかりそうに無い。
今回のBBマークさんの問題提起は実に重い。
草原で草を食む動物が群れている、そこに密かに近づくハンターのライオン
やがて群れから離れた逃げ遅れた一頭がハンターの餌食となる
ライオンは獲物をくわえたまま子供の居るところに戻り餌として子供に与える
身体中を食いちぎるように貪り食うライオンの子ども達・・・さっきまで草原を駆けていた生き物は今はライオンの腹の中・・・・・嗚呼神よ!
こういう情景を見ると心が痛む、こんな残酷なことをしないと生き物は生を続けてゆくことができないなんて・・生態系という食物連鎖そのものが納得行かない。
もし自分が「捕食される側の生き物であったなら」と考えることがよくある。
幸いというか罪を重ね続けるという意味で不幸というか、私は捕食される側としては生まれてこなかった。しかし、地球上の生き物の殆どは人間に捕食されている。
牛や豚、鶏など、あるときまでは当たり前のように空気を吸い、水を飲み生を味わっている、そしてこの先も生き続けると思っていたある日突然、ドナドナの世界で何処かに連れて行かれてしまう、その後は地獄。
聖書的な考えで行けば、人間のみ神に似せて作られ、その人間のために数多の生き物が存在し、人間はそれらを支配できる・・・ということらしいけど、実に身勝手な理屈だ。
世の中にはこうした屁理屈で他の命を食べてしまうことを合理化している例は幾つもある。以前聞いた話では、哺乳類は食べてはいけない、何故なら殺される時に人間に恨みの気持ちが生まれ、それが重なれば人類そのものに災いが降りかかる。その点、野菜や果物は食べられるために存在するようなものだし、哺乳類以外の魚なども恨みを感じることはないから最小限なら食べても良い・・・とか。
BBマークさんのように考えれば、生き物全てが「本来食べられるために存在しているのではない」ということであって、「食べられたくない」と感じているのだろう。
私が思うところはBBマークさんとは少し違うが、神様が創ったこの生態系の仕組みそのものに私も納得が行かない。何かを食べた瞬間に「他の生き物に申し訳ない」という罪悪感を感じ続けるなんて、人生はなんて残酷に作られているのだろう。
しかし、蟻や蜂などの役割分担が高度に発達した集団は集団があたかも一つの生命体として機能している、全体が無ければ存在できないわけで、個々に分かれているように見えて実は全体で一個に等しい。この考えをもう少し延長すると、地球の生態系もまた1個の生命体だ。そこには捕食者、被捕食者という捕らえ方ではなく、全体の中の一つの仕組みなのかもしれない。
で、野菜はどうなのよ?という話に戻るわけだが(説明がくどい)、野菜が食べられる時に「きゃー止めて、何すんの!!」と悲鳴を上げるわけでもないし、リンゴやバナナのように「どうぞ食べてください」と言っているような果物もあるし、ここは「悲鳴が聞こえなきゃいいんじゃないの」ということにしておこう! BBマークさん駄目でしょうか?