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(回答先: 自然の為には消費(生産)の抑制が必要 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 11 月 29 日 23:10:39)
横レス失礼いたします。
ワヤクチャさんの基本信念:
「自然を愛する気持ち
これを全ての考察の土台にしたいと考えております。
自然の中で人間が生かされている
という事を片時も忘れずに考察できればと思います。」
大いに共感を覚えました。
また、私も、原点を片時も忘れずに物事を考えないといけないと、再認識しました。
私の原点は、何の罪もない動物たちが人間のせいで生存を脅かされていることへの憤りです。
そのため、当初は環境原理主義的な考え方をして、
人間が原始時代の生活に戻ればいいんだ、などと考えたこともありました。
しかし、それは人間の欲望に際限がないことを思えばどう考えても無理そうなので、
人間の欲望の発露先かつ抽出先である経済をどうにかする必要がある、と考えるに至りました。
問題は、どんな経済(というより社会といった方が適切かな)ならよいかです。
環境と経済の両立、循環型社会、、、言葉としては、理想的そうなものが
すぐ思いつきます(今環境と経済の「両立」の意味から考え直す必要を感じましたがこれは私の今後の課題としたいと思います)。
しかし、実際に、具体的にどんな社会がよいかというと、
今の社会・経済の仕組みさえ十分に理解できていない私にはまだまだわからない、というのが私の実情です。
内橋克人さんが提言されている、
「競争セクター」(分断・対立・競争を原理とするセクター)一辺倒の社会から、
連帯・参加・協同を原理とした「共生セクター」の比重のより大きい(競争セクターよりも比重の大きい)社会への転換、というのが、大枠としては答えだろうなとは思っています。
また、内橋さんも言われていますが、自給、ということも大いに重要と考えています。
それも、国よりも小さな単位での自給です。
つまり、地域自給。すべてのものをある境界内で自給することは不可能でしょうが、
ある程度は自給すべきと考えます。
自給することで、資源の循環が行われるようになるでしょうし、長期的視点で資源の採取が行われるようになることから資源の収奪的利用を防ぐこともできると思います。
この観点からは、当然ながら、グローバリゼーションという、世界の市場化などというのは、当然ながら取って替わられるべきものということになります。
誤解を避けるために一応言っておくと
(ワヤクチャさんならおわかりになると思いますが)、
私はなにも、内向きの社会を提唱しているわけではありません。外に対して開かれた社会というのと、一握りの強者が外部からズカズカと入り込んできて社会も生活も人間性もズタズタにするに身をまかせざるを得ない社会というのは、違うと思っているだけです。
(今の日本の場合、売国奴暴君が内部からズタズタにしようとしてるわけですが・・・
それと、外部への穴をたくさん開けて、外部からの攻撃にさらされやすくしていますね)
グローバリゼーション、市場原理至上主義、新自由主義、マネー資本主義、
貿易自由化、民営化、市場化テスト、新古典派経済学、・・・
こういったもの(同義語もあると思いますが)とはまるっきり異なった社会のあり方、
今後も考えていきたいと思います。
ワヤクチャさんもおっしゃってる(はずの;今ちょっとその記述が見つけられませんが)協同組合というものについても、考えていきたいと思っています。
なんか、動物保護的な私の原点からそれてる気もしますが、
動物保護を叫ぶ運動をするよりは、人間社会(人間も動物の一種であり、同じ人間でも被害者と呼ぶべき人たちもいますが)の構造を変える方が本質的な解決になると思うので、
一応原点からは外れていないかと。
ぼうっとしてると原点を見失いそうですが(^_^;)