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(回答先: 左翼の改良主義と革命主義について [ワヤクチャさんへ] 投稿者 あっしら 日時 2005 年 11 月 28 日 03:31:25)
あっしらさん、レスありがとうございます。
改良主義と革命主義の二項対立と、そのいずれもが不毛であるという認識は私も持っているつもりです。
革命とは何でしょうか?
革命は何を目的にしているのでしょうか?
私には経済的な平等こそが革命の目的であるという認識があります。
しかし、これは依然として資本主義の枠内の平等だとしたら?
私にはこれ以上の目的を想定する事ができないのです。
しかし、一方では、経済的な不平等に多くの人が苦しんでおり、
経済的な平等を目指す事は当面の最大の目的だと多くの人の目には映るでしょう。
革命の目的自体は、そのような経済的平等を求める運動の中から生まれてくるのではないでしょうか?
革命は反戦・貧困の撲滅・環境再生などの改良闘争の中から生まれてくるというイメージを私は持っております。
そのような運動の中にはいない人間の中から「来るべき世界」を具体的に構想する人間が生まれてくるとは思いがたいです。
私も経済的平等が究極の目的だとは思っておりません。
しかし、現時点において最も目立つ問題点を糸口にして「来るべき社会」を構想するというのが最も現実的なやり方だと思います。
>左翼の改良主義と革命主義について [ワヤクチャさんへ]
>http://www.asyura2.com/0510/idletalk16/msg/160.html
>投稿者 あっしら 日時 2005 年 11 月 28 日 03:31:25: Mo7ApAlflbQ6s
>ワヤクチャさんの「改良主義とは何か?(あっしらさんへのレスです。)」( >http://www.asyura2.com/0510/idletalk15/msg/810.html )へのレスです。
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>レスが遅くなったことをお詫びいたします。
いいえ。お忙しいでしょうから。結構ですよ。
>まず、ワヤクチャさんの「少なくとも「改良主義」という批判は批判したい」につい>ては、「改良主義」という言葉に“悪”といった価値判断を込めているわけではない>ので、ワヤクチャさんに対する批判ではなく、ワヤクチャさんの立場に関する私の認>識であることを申し上げておきます。
了解しました。
私は改良を究極の目的だと考えてはおりません。
改良闘争を通じてこそ来るべき社会が見えてくるハズだと思っているのです。
私は労働者であり、活動を通じてしか自らの認識を高める事はできないと考えております。こうした投稿も活動の一部ではありますが。
>政治における最終目標の違いは価値観の違いに収斂するものですから、政治的最終目>標の違いは、善悪や論理とは無関係で、好き嫌いに帰着するものです。
ですね。
単に趣味の違いみたいなものですね。
貴方の最終目標は何でしょうか?
私の最終目標は「自然の再生と全ての生命体の幸福な生」です。
幸福って何か?
という事が問題ですが。
少なくとも不本意な生を強制される事の無い世界の実現が目標です。
>(もちろん、価値観や最終目標の具体化を通じて自己矛盾や思い違いが明らかになる>という論理性はあります)
>市場経済を基盤として「生活協同組合運動」や「医療無料化」そして「経済的平等主>義」の実現を目指すワヤクチャさんは、本来の意味での革命を志向しているのではな>く「協同組合主義者や改良主義者(国家による弱者救済主義者)であり集産主義者」>なのだと受け止め、反市場経済・反集産主義(反社会主義)を標榜している自分とし>てはちょっとがっかりしたと書いたのです。
市場経済をどのような経済に変革するとおっしゃるのでしょうか?
私には市場経済に代わる経済システムが見えないのです。
>価値観の違いは政治にとって究極の最重要問題ですが、価値観自体がテーマになって>いない限り、棚上げしたほうがいいし棚上げできる問題だと考えています。
ですかね?
>価値観の違いを脇におくと、問題は、改良を目的として提示された諸政策の実現がほ>んとうに全般的な改良及び中長期的な改良につながるのかという合目的性(合理性)>に関するものになるはずです。
目標との関連で全般的とか中長期的とか言えると思うので、
その事を論じる為には共通の目標が必要ですね。
貴方の目標は何ですか?
>これがこの間他の人たちとのやり取りで何度か書いた「価値観と論理を峻別する」意>味です。
ところが、価値観を問わないのであれば、手段の優劣を論じる対話も
すれ違いに終わるように思われます。
>「医療無料化」が実現されたとしても、その代償として全体の経済的生活が劣化する>のなら改良にはならないし、「経済的平等主義」の実現が低位生活レベルのものなら>改良という意味を持ちません。
そうですね。
部分の目標達成が他の目標を阻害するようではダメですね。
その意味では全般的な目標達成が求められます。
>(医療の無料化を他のなにものにも代えがたいものと考えたり、経済的平等に至上の>価値を見い出しているのなら、それらの実現に伴って他がどうなるのかはほとんど関>係ないという判断もアリです)
いや、そんな改革は無意味でしょう。
>経済主体の私的所有=社会的分業を基礎とした市場経済、そうでないとしても、国際>取引を重要な要素とする経済構造である限り、近代経済システムが内包する経済論理>の規定性から逃れることはできません。政治的国際関係の影響は捨象するとして>も...
問題は市場経済では無い経済システムがあるのか?
という事です。
>【ワヤクチャさん】
>「ところで、改良主義とは何でしょうか?」
>内容はともかく革命を標榜していながら、国家社会の在り方を根底から変えるヴィジ>ョンや道筋を提示すことなく、大多数を占める勤労者や小規模事業主の労働条件や生>活条件の改善を進めることが最終目標(革命)への道に通じるとする考え方だと思っ>ています。
根底から変えるビジョンは私にはありません。
根底から変える為の方法論を模索している段階です。
まず自分が提示し、それに対してご意見・ご批判をいただきながら
根本的変革を目指しているのです。
>念のため、大多数を占める勤労者や小規模事業主の労働条件や生活条件の改善をめざ>すこと自体を改良主義と言っているわけではなく、それが革命の目標と混同されてい>たり自己目的(最終目標)になっていることが改良主義と呼ぶ要件です。
それらは革命の目標では無いでしょう。
革命の媒介だと思います。
人間の思考の発達は目の前の問題を解決しながら実現すると思います。
プラグマティズムみたいですが。
>人々は、遠い未来を生きているわけではなく、今を生きているのですから、現在の生>存条件を少しでも良くするために動くのは当然です。
>ですから、改良を追求する政治運動は、左翼においても否定されたり嘲笑されるもの>ではなく、極めて重要なものだと思っています。
そうです。
そして、そういう活動の只中からこそ新たな社会のシステムの発想が生まれてくると思うのです。
私にはその発想はまだ無いのです。
>私が阿修羅で書いている内容も、ほとんどが近代的国家社会の枠内の話でしかありま>せん。
ですか?
いや、それは当然のことでは無いでしょうか?
認識は今現に置かれている状況との関連でしか生まれないでしょうから。
>【ワヤクチャさん】
>「革命は改良に対する弾圧によって誘発されるものだと私は思っておりますので、改>良こそが革命の媒介だと思っております。
>改良という媒介を通じる事無く夢想する「革命なるもの」は「革命のマンガ」であっ>て、永遠に訪れない「見果てぬ夢」だと考えております。
>「革命か?改良か?」という二項対立図式は
>改良を媒介とした革命を起こさせない為に編み出された
>イデオロギー攻撃だと思っております。」
>前回も書きましたが、ワヤクチャさんのこのような文章を読むと、やはり「19世紀>から20世紀にかけての左翼運動の変節をたどっているようでちょっとがっかり」し>ます。
そうですか。
私にはこのようなやり方しか思い浮かばないという事です。
つまり、来るべき社会はいかにあるべきか?
については様々な改良闘争の只中で考えようとしているのです。
>ワヤクチャさんが書かれた内容は、改良主義者が自分の拠って立つ考え方を示す典型>的なものの一つのように思われますが、そのように考えているからこそ改良主義者に>なると言ったほうがいいかもしれません。
ですかね?
私にはこの考えを自己批判する能力はありません。
だから「正しい」と思っているのです。
>ご提示の「革命か?改良か?」という二項対立図式は、現在でもなお革命を志向する>左翼のあいだで分裂や対立を招く大きな要因の一つになっていると言えるものです。
ですから、「改良を媒介とした革命」というものを構想しているのですが。
>しかし、「革命か?改良か?」という二項対立そのものが、誤りであり無意味なので>す。
同意します。
>革命は革命、改良は改良であって、両者は二者択一的な政治目標というものではな>く、それぞれが次元の異なる併行可能な政治目標です。
しかし、改良と革命の間に関連はあるのではないですか?
無関係にそれぞれ進むというものではないと思います。
>革命を志向する左翼にとって決定的な意味があるのは革命であるはずで、改良は、同>じ人がその運動も担うとしても政治勢力としては別の主体が推し進めるべき政治課題>であり、革命そのものとは次元や意味付けが異なる政治活動です。
そのようなおっしゃり方が改良と革命を隔離する論理になっていると思うのですが。
私には改良と革命は影響し合うものだと思うのです。
>近代国家社会の枠内での改良と近代国家社会を否定して新しい世界を創り出す革命と>をごっちゃに考えたり、同じ政治組織が改良と革命の両方を担おうとしている現状が>おかしな混乱の一つの要因だと思っています。
近代社会を乗り越える運動は改良運動の中にこそあるのではないでしょうか?
市場経済は富を平等に分配しません。
市場経済を無くす事はできないとしても、市場経済に介入する事によって富の平等な分配を実現し、来るべき社会の条件を作る事はできると思います。
>革命を志向する左翼のほとんど(すべてと言ってもいいかもしれません)がこのよう>な峻別をほとんどしていないため、左翼のなかで革命主義と改良主義という奇妙で悲>劇的な対立が生じている(きた)のです。
その対立は改良と革命の相互の影響を捨象する事によって生まれたのではないでしょうか?
>私は、ワヤクチャさんとは異なり、改良が人々の関係性や活動容態が根底的に変わる>“別世界”を創り出すための革命の媒介となったり、改良の積み重ねが革命につなが>っていくというようなことはないと確信しています。
今の改良がそのまま惰性で革命に結び付くとは私も思いません。
改良を行う人間の意識が変化し、新たなシステムを発想するだろうと考えているのです。
無媒介的に意識は発生しないと思っているのです。
>(改良を実現する動きを通じて、人々の価値観や論理的認識の変化が革命の主体形成>つながっていくとは考えています)
まさにこの事です。
私が改良闘争に意義を感じているのは。
私は反原発運動に参加して世界観を変えたと思っております。
運動の中でこそ意識の覚醒は実現すると考えます。
>改良は、あくまでも、今を生きる人々が否応なく投げ込まれている「近代」での生存>条件を少しでも良くするためのものです。
発端はそうですが、運動である以上、様々な方面に意識は広がっていきます。
>改良が「近代」を否定した上に構築される革命後の世界とつながりがあるかように考>えるのは、錯誤か、「近代」とその後に創っていく世界が決定的に違うという認識が>希薄か、革命勢力が政治権力を握れば世の中は良くなるという盲信の現れかなどだろ>うと思っています。
ところが近代を超えるものはどう構想されているのでしょうか?
そこが極めて曖昧だと思っております。
大量生産に対して消費者に密着した形の少量生産を実現しなければならないと私は思っておりますが、それは経済の目的が消費であり、金儲けではないという事からです。
使用価値が大事で、交換価値は重要では無いという事です。
現在は交換価値(金)ばかりに目がいっている社会であり
経済の目的としては倒錯しているのです。
>(「近代」とその後は歴史的(時間軸的)には当然つながっていますから、言いたい>ことは、“量的変化がもたらす質的転化”といった意味合いでのつながりはないとい>うものです)
>改良と革命の違いが理解できていなかったり革命のヴィジョンが曖昧なものでしかな>いからこそ、革命を標榜している政治勢力が、改良主義的罠に嵌って議会闘争に全精>力を注ぎ込んだり、その逆として、労働組合運動などに革命主義や政治主義を持ち込>もうとしたり、議会闘争を否定し“直接的大衆闘争”こそ意義があるとするような寝>ぼけた動きが絶えないと思っています。
どれも部分でしかありませんね。
それらを全て行うような運動体を作る必要があります。
「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」です。
分裂では無く、共闘です。
>改良主義の罠に嵌ってしまうのは、革命の目的が弱者救済や“実質的”平等主義の実>現となり、それが政治的多数派の形成=権了掌握で実現できると考えることに主要因>があると考えています。
いずれにせよ、多数にならなければ何も変わりません。
問題はどのような内容で多数派になるか?です。
>ちょっと硬い表現を使えば、社会革命が目的として希薄化であったり抽象的なイメー>ジででしかなく、革命志向勢力が権力を握る政治革命がすべてであるかのような考え>方になってしまうことで、改良政策のゴールが革命と同等のもののように見えてしま>うのではないかと推察しています。
社会革命のイメージを具体的に持つ為に改良闘争の中に身を投じなければならないではないでしょうか?
>権力を握る政治革命は、革命を始めるための入り口をこじ開ける必要不可欠な手段>(過程)ではあっても、革命そのものではありません。
それはそうでしょう。
権力は合意形成によって結果として生じるものです。
合意形成内容を具体化せずに「権力奪取」を抽象的に行う事によって無内容な革命政権ができてしまいます。
>それまでイメージや論理でしかなかったものを現実のものにするためのスタートライ>ンに立つのが政治革命なのです。
問題はどのような具体的内容を実現する為の革命なのか?です。
>権力という支配−被支配関係の中核機能を、徐々に限定的なものにそして人々相互の>内なる規定性へと変えていくのが政治革命後の社会革命の役割でもあるはずです。
このことを抽象的に論じて意味あるのでしょうか?
>革命はともかく夢想しなければ達成不能であり、夢想することが出発点です。
現実の闘争に身を投じながら夢想する事が必要だと思います。
闘争と無関係に夢想してもいい考えは生まれてこないでしょう。
>同じような革命を夢想しているもの同士が議論を交わし、革命後世界の骨格やそれに>至る過程をより具体的なイメージにしていくことが革命運動そのものでもあります。
ですが、その中身は改良運動によって与えられていると思います。
>革命を願わないものは革命を実現するための方法を考えることもないので、革命が実>現されることもありません。
>(歴史は唯物史観的に動くのではなく生身の人々が動かすものです)
革命の意志が必要だという事は当たり前のことです。
革命の意志自体は社会に支配されているという「不自由感」から生まれてくるでしょう。
>もちろん、夢想したり願っている革命を主体的条件がないまま“突出者”が権力的に>成就しようと意気込むような運動では、政治革命(政治権力の奪取)は可能だとして>も、社会革命は不可能です。
>不幸にもそのようなかたちで左翼革命勢力が政治権力を握れば、ソ連や中国などが経>験したような国家社会が生み出されることになります。
>(ソ連や中国、そして北朝鮮も、悪意であのような政策を採ったわけではなく、善意>で遂行したのです)
>改良なんかどうでもいい、決定的な革命的政治闘争がすべてだという革命主義的政治>運動は、千年王国の到来のために自己や糾合した人々を犠牲として捧げることを美と>するようなものです。
>そのような革命主義は、改良主義の裏返しでしかなく、社会革命軽視・政治革命重視>の倒錯的観念が生み出す落とし穴だと思っています。
革命とは社会システムをめぐる闘争なのであり
社会システムを具体的に論じないあらゆる「革命勢力」は「革命ごっこ」をやっているだけでしょう。
>このような陥穽の奥深い要因は、革命の目的が自己を捨象した“他者救済”になって>いることにあるのだろうと考えています。
自己というのは生身の1個の人間に過ぎず
革命は人間の外部にある社会システムをめぐるものです。
他者という人間では無く、自分も含めた全ての人に影響を及ぼす
社会システムをめぐるものです。
>“他者救済”であれば、強制力(政治権力)を握り、自分たちが正義(理想)と考え>る政策を実行することで目的が達成できると考えるのも不思議ではありません。
>自己は捨象され“不幸な他者”しか念頭にないので、自己犠牲的な活動が可能どころ>か、それにヒロイズムを感じることさえできます。
私は少なくとも自己犠牲ではなく
自分も含めた全ての人間にとっていい社会を追求するというだけです。
>改良主義的左翼も革命主義的左翼も、このような心性レベルは共通のように見えま>す。
自己犠牲が中心になっているのであれば運動は衰退するでしょう。
>改良主義と革命主義の対立(「革命か?改良か?」の二項対立図式)は、これまでの>左翼の短慮ぶりを示すコインの表と裏なのです。
私もこの対立をやめさせようとしております。
>革命を志向する政治勢力は議会闘争を行うべきではなく、労働組合に政治主義や革命>主義を持ち込むのも愚です。
>革命を志向する政治勢力は、否定の対象である「近代国家」を運営するための政治権>力を掌握しようとする愚を犯してはなりません。それは、否応なく、近代経済システ>ムの論理に隷属した国家運営をせざるを得ないことを意味するからです。
>革命を志向する政治勢力が政治権力を握る目的は、「近代国家」の運営ではなく、>「近代」とは異質の国家社会を形成する社会革命に踏み出すためのものでなければなり>ません。
「近代とは異質な国家社会」とはどのようなものでしょうか?
私には想像できません。
>雑駁に言えば、共産主義政党は、革命の主体形成を目的としてのみ政治活動を行うべ>きで、議会の議席をめざす活動をしてはならないということです。
革命の主体形成は政策論議によって達成できると考えております。
>だからといって、共産主義政党に所属する人たちが改良闘争や議会選挙活動をする必>要はないと言っているわけではありません。
ですよね。
>そのような運動は、社民党なり自民党なりの“近代政党”をベースに行えばいいのです。
<以下は後ほど。眠たくなってしまいました。>