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ワヤクチャさんの「改良主義とは何か?(あっしらさんへのレスです。)」( http://www.asyura2.com/0510/idletalk15/msg/810.html )へのレスです。
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レスが遅くなったことをお詫びいたします。
まず、ワヤクチャさんの「少なくとも「改良主義」という批判は批判したい」については、「改良主義」という言葉に“悪”といった価値判断を込めているわけではないので、ワヤクチャさんに対する批判ではなく、ワヤクチャさんの立場に関する私の認識であることを申し上げておきます。
政治における最終目標の違いは価値観の違いに収斂するものですから、政治的最終目標の違いは、善悪や論理とは無関係で、好き嫌いに帰着するものです。
(もちろん、価値観や最終目標の具体化を通じて自己矛盾や思い違いが明らかになるという論理性はあります)
市場経済を基盤として「生活協同組合運動」や「医療無料化」そして「経済的平等主義」の実現を目指すワヤクチャさんは、本来の意味での革命を志向しているのではなく「協同組合主義者や改良主義者(国家による弱者救済主義者)であり集産主義者」なのだと受け止め、反市場経済・反集産主義(反社会主義)を標榜している自分としてはちょっとがっかりしたと書いたのです。
価値観の違いは政治にとって究極の最重要問題ですが、価値観自体がテーマになっていない限り、棚上げしたほうがいいし棚上げできる問題だと考えています。
価値観の違いを脇におくと、問題は、改良を目的として提示された諸政策の実現がほんとうに全般的な改良及び中長期的な改良につながるのかという合目的性(合理性)に関するものになるはずです。
これがこの間他の人たちとのやり取りで何度か書いた「価値観と論理を峻別する」意味です。
「医療無料化」が実現されたとしても、その代償として全体の経済的生活が劣化するのなら改良にはならないし、「経済的平等主義」の実現が低位生活レベルのものなら改良という意味を持ちません。
(医療の無料化を他のなにものにも代えがたいものと考えたり、経済的平等に至上の価値を見い出しているのなら、それらの実現に伴って他がどうなるのかはほとんど関係ないという判断もアリです)
経済主体の私的所有=社会的分業を基礎とした市場経済、そうでないとしても、国際取引を重要な要素とする経済構造である限り、近代経済システムが内包する経済論理の規定性から逃れることはできません。政治的国際関係の影響は捨象するとしても...
【ワヤクチャさん】
「ところで、改良主義とは何でしょうか?」
内容はともかく革命を標榜していながら、国家社会の在り方を根底から変えるヴィジョンや道筋を提示すことなく、大多数を占める勤労者や小規模事業主の労働条件や生活条件の改善を進めることが最終目標(革命)への道に通じるとする考え方だと思っています。
念のため、大多数を占める勤労者や小規模事業主の労働条件や生活条件の改善をめざすこと自体を改良主義と言っているわけではなく、それが革命の目標と混同されていたり自己目的(最終目標)になっていることが改良主義と呼ぶ要件です。
人々は、遠い未来を生きているわけではなく、今を生きているのですから、現在の生存条件を少しでも良くするために動くのは当然です。
ですから、改良を追求する政治運動は、左翼においても否定されたり嘲笑されるものではなく、極めて重要なものだと思っています。
私が阿修羅で書いている内容も、ほとんどが近代的国家社会の枠内の話でしかありません。
【ワヤクチャさん】
「革命は改良に対する弾圧によって誘発されるものだと私は思っておりますので、改良こそが革命の媒介だと思っております。
改良という媒介を通じる事無く夢想する「革命なるもの」は「革命のマンガ」であって、永遠に訪れない「見果てぬ夢」だと考えております。
「革命か?改良か?」という二項対立図式は
改良を媒介とした革命を起こさせない為に編み出された
イデオロギー攻撃だと思っております。」
前回も書きましたが、ワヤクチャさんのこのような文章を読むと、やはり「19世紀から20世紀にかけての左翼運動の変節をたどっているようでちょっとがっかり」します。
ワヤクチャさんが書かれた内容は、改良主義者が自分の拠って立つ考え方を示す典型的なものの一つのように思われますが、そのように考えているからこそ改良主義者になると言ったほうがいいかもしれません。
ご提示の「革命か?改良か?」という二項対立図式は、現在でもなお革命を志向する左翼のあいだで分裂や対立を招く大きな要因の一つになっていると言えるものです。
しかし、「革命か?改良か?」という二項対立そのものが、誤りであり無意味なのです。
革命は革命、改良は改良であって、両者は二者択一的な政治目標というものではなく、それぞれが次元の異なる併行可能な政治目標です。
革命を志向する左翼にとって決定的な意味があるのは革命であるはずで、改良は、同じ人がその運動も担うとしても政治勢力としては別の主体が推し進めるべき政治課題であり、革命そのものとは次元や意味付けが異なる政治活動です。
近代国家社会の枠内での改良と近代国家社会を否定して新しい世界を創り出す革命とをごっちゃに考えたり、同じ政治組織が改良と革命の両方を担おうとしている現状がおかしな混乱の一つの要因だと思っています。
革命を志向する左翼のほとんど(すべてと言ってもいいかもしれません)がこのような峻別をほとんどしていないため、左翼のなかで革命主義と改良主義という奇妙で悲劇的な対立が生じている(きた)のです。
私は、ワヤクチャさんとは異なり、改良が人々の関係性や活動容態が根底的に変わる“別世界”を創り出すための革命の媒介となったり、改良の積み重ねが革命につながっていくというようなことはないと確信しています。
(改良を実現する動きを通じて、人々の価値観や論理的認識の変化が革命の主体形成につながっていくとは考えています)
改良は、あくまでも、今を生きる人々が否応なく投げ込まれている「近代」での生存条件を少しでも良くするためのものです。
改良が「近代」を否定した上に構築される革命後の世界とつながりがあるかように考えるのは、錯誤か、「近代」とその後に創っていく世界が決定的に違うという認識が希薄か、革命勢力が政治権力を握れば世の中は良くなるという盲信の現れかなどだろうと思っています。
(「近代」とその後は歴史的(時間軸的)には当然つながっていますから、言いたいことは、“量的変化がもたらす質的転化”といった意味合いでのつながりはないというものです)
改良と革命の違いが理解できていなかったり革命のヴィジョンが曖昧なものでしかないからこそ、革命を標榜している政治勢力が、改良主義的罠に嵌って議会闘争に全精力を注ぎ込んだり、その逆として、労働組合運動などに革命主義や政治主義を持ち込もうとしたり、議会闘争を否定し“直接的大衆闘争”こそ意義があるとするような寝ぼけた動きが絶えないと思っています。
改良主義の罠に嵌ってしまうのは、革命の目的が弱者救済や“実質的”平等主義の実現となり、それが政治的多数派の形成=権了掌握で実現できると考えることに主要因があると考えています。
ちょっと硬い表現を使えば、社会革命が目的として希薄化であったり抽象的なイメージででしかなく、革命志向勢力が権力を握る政治革命がすべてであるかのような考え方になってしまうことで、改良政策のゴールが革命と同等のもののように見えてしまうのではないかと推察しています。
権力を握る政治革命は、革命を始めるための入り口をこじ開ける必要不可欠な手段(過程)ではあっても、革命そのものではありません。
それまでイメージや論理でしかなかったものを現実のものにするためのスタートラインに立つのが政治革命なのです。
権力という支配−被支配関係の中核機能を、徐々に限定的なものにそして人々相互の内なる規定性へと変えていくのが政治革命後の社会革命の役割でもあるはずです。
革命はともかく夢想しなければ達成不能であり、夢想することが出発点です。
同じような革命を夢想しているもの同士が議論を交わし、革命後世界の骨格やそれに至る過程をより具体的なイメージにしていくことが革命運動そのものでもあります。
革命を願わないものは革命を実現するための方法を考えることもないので、革命が実現されることもありません。
(歴史は唯物史観的に動くのではなく生身の人々が動かすものです)
もちろん、夢想したり願っている革命を主体的条件がないまま“突出者”が権力的に成就しようと意気込むような運動では、政治革命(政治権力の奪取)は可能だとしても、社会革命は不可能です。
不幸にもそのようなかたちで左翼革命勢力が政治権力を握れば、ソ連や中国などが経験したような国家社会が生み出されることになります。
(ソ連や中国、そして北朝鮮も、悪意であのような政策を採ったわけではなく、善意で遂行したのです)
改良なんかどうでもいい、決定的な革命的政治闘争がすべてだという革命主義的政治運動は、千年王国の到来のために自己や糾合した人々を犠牲として捧げることを美とするようなものです。
そのような革命主義は、改良主義の裏返しでしかなく、社会革命軽視・政治革命重視の倒錯的観念が生み出す落とし穴だと思っています。
このような陥穽の奥深い要因は、革命の目的が自己を捨象した“他者救済”になっていることにあるのだろうと考えています。
“他者救済”であれば、強制力(政治権力)を握り、自分たちが正義(理想)と考える政策を実行することで目的が達成できると考えるのも不思議ではありません。
自己は捨象され“不幸な他者”しか念頭にないので、自己犠牲的な活動が可能どころか、それにヒロイズムを感じることさえできます。
改良主義的左翼も革命主義的左翼も、このような心性レベルは共通のように見えます。
改良主義と革命主義の対立(「革命か?改良か?」の二項対立図式)は、これまでの左翼の短慮ぶりを示すコインの表と裏なのです。
革命を志向する政治勢力は議会闘争を行うべきではなく、労働組合に政治主義や革命主義を持ち込むのも愚です。
革命を志向する政治勢力は、否定の対象である「近代国家」を運営するための政治権力を掌握しようとする愚を犯してはなりません。それは、否応なく、近代経済システムの論理に隷属した国家運営をせざるを得ないことを意味するからです。
革命を志向する政治勢力が政治権力を握る目的は、「近代国家」の運営ではなく、「近代」とは異質の国家社会を形成する社会革命に踏み出すためのものでなければなりません。
雑駁に言えば、共産主義政党は、革命の主体形成を目的としてのみ政治活動を行うべきで、議会の議席をめざす活動をしてはならないということです。
だからといって、共産主義政党に所属する人たちが改良闘争や議会選挙活動をする必要はないと言っているわけではありません。
そのような運動は、社民党なり自民党なりの“近代政党”をベースに行えばいいのです。
【ワヤクチャさん】
「人民は今の生活よりも少しでもマシな生活を望んでおり
改良的なスローガンこそが人民の要求を代弁するものであります。
そのような現実的スローガンを介さずに主張される
「革命なるもの」は人民にとってインテリの「観念お遊び」にしか見えません。
フランス革命は「パンをよこせ」から始まったのです。」
人々が少しでもマシな生活条件を手に入れられるようにすることは極めて重要な現実的テーマですが、革命と直接の関係があるわけではありません。
庶民がマシな生活条件を手に入れるための政治運動に“革命”を持ち込むことは愚であり、マシな生活条件を手に入れるための政治運動を推し進めていけば革命につながっていくと考えるのも短慮です。
「近代」で庶民がよりマシな生活条件を手に入れ続けることは、決して、“反資本主義”的動きではないのです。
左翼がそのような近代の経済論理を理解していないことも、合理的な革命運動が展開できない一つの要因だと考えています。
日本のみならず世界レベルの“良心的”支配層(存在するとしたらですが)が愚かであるが故に、大多数の人々の生活条件を良くすることが自分たちや大企業にとって最大の利益であるという認識ができていないのであり、戦後日本の経済成長を顧みればわかるように、大多数の国民の物質的生活条件を良くすることこそが、供給主体(企業=資本)総体そしてそれを基盤とする政治的支配層の安定的利益にとって最も重要な条件なのです。
(世界支配の強化を目論んでいるより“狡猾な”支配層は、そのような論理を知っていながらそれを実現する政策を否定し葬り去ろうとします)
フランス革命が「パンをよこせ」から始まったとは思っていませんが、人々の「パンをよこせ」という心情も利用しながら達成されたフランス革命は、結果的にどのような国家社会を生み出したのかじっくり考え直す必要もあります。
ワヤクチャさんは、革命中国の路線修正について、「中国の「社会主義的市場経済」という概念を当初私は社会主義の本質を理解していない詭弁だと思っておりました。しかし、今では市場経済に政府が適切な介入をするという正しい路線だと思っております」と書かれていますが、中国の「社会主義的市場経済」は、端的に言えば、ナチスが採った“国家社会主義”的経済政策と類似のものです。
念のため、ナチズムやファシズムといった言葉にべったり貼り付けられている奇妙な価値判断と現在の中国を結び付けようという意図はありませんし、“国家社会主義”的経済政策が非合理だとか悪だと考えているわけでもありません。
戦前の日本が戦争遂行のために構築した総動員体制や、それを色濃く残した戦後日本の経済政策も同種のものです。
中国の「社会主義的市場経済」を“正しい”と考えているのなら、70年代までの戦後日本の姿に戻れば済むのではありませんか?
【ワヤクチャさん】
「日本では「勝ち組・負け組み」の二極化に我慢ができない
貧乏人の勢力が政治的に目覚める事によって革命が実現するでしょう。
そのスローガンは「消費税の増税反対」というような現実的なものから始まると考えます。
これなどは改良以前の抵抗の段階です。
抵抗から改良と発展し、改良に対する資本家の弾圧に対するものとして革命は実現するでしょう。」
「勝ち組・負け組」なんていう色分けや二極化状況なんかどうでもいいことではないのですか?
所得や資産が大きい人を「勝ち組」と呼ぶなんて、どっぷり近代的価値観に漬かった判断でしかないようにも思えます。
個々のひとの“絶対的生活条件”こそが問題なのであり、相対的比較にそれほどの意味はあるとは思いません。
大多数を占める人たちの“絶対的生活条件”を向上させることを追求すればいいのです。
低所得者層の実質所得水準が上昇することで高額所得者層の実質所得が抑えられるのなら“結果的に”所得格差は縮まることになりますが、低所得者の実質所得水準が上昇してもなお高額所得者の実質所得が増加するのならそれはそれでいいのではありませんか?
(左翼の「経済的平等主義」志向の背後には、利潤を剰余価値の実現と見るマルクス「資本論」の論理や“搾取”論を基礎に、平等の実現は“搾取”をなくすことに通じるという思いがあるように思えます)
「消費税の増税反対」に異論はありませんが、それも革命とは無縁の話です。
改良というテーマであれば、「消費税の増税反対」という受身的政策テーマよりも、実質所得の増大をめざすほうがずっと改良に貢献する積極的な政策ではないでしょうか?
(所得がない人や極端に低い人は別ですが、消費税の増税分よりも実質所得の増加のほうが多ければ、消費税の増税は問題ではないという所得層が多数を占めています。年金や生活保護も、消費税の増税分よりも実質給付の増加のほうが多ければ問題ありません)
より良い経済生活を求めることを否定するわけではありませんが、それが革命にも通じる政治目標というのなら、高額所得者の目標と本質的な変わりがないのではありませんか?
上述したように、大多数の国民がより良い経済生活をすることは必ずしも資本家(企業=資本)の利益に反する“論理”ではないので、「改良に対する資本家の弾圧に対するものとして革命は実現する」という認識は空虚なものです。
(とりわけ最強産業国家でありデフレに悩む日本ではそれを強く言えます)
※ なお、もう一つの「社会主義とは何か?(あっしらさんへのレスです。)」( http://www.asyura2.com/0510/idletalk15/msg/809.html )に対するレスは、今回の改良主義をめぐるやり取りが終わった後にしたほうがいいと判断させていただいたので、後日に繰り延べさせていただきます。