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(回答先: パラドックスの社会 投稿者 考察者K 日時 2005 年 11 月 19 日 08:58:15)
Kさん、哲学的な話題なので一言
先週は紅葉を見に出かけました。かえでの類は実に綺麗ですね、あの赤はどんな人も魅了してしまう。こういう「綺麗とか素晴らしい」という感情は、パソコンで言えばBIOSに相当する基本ソフトに由来する感情(反応)だと言う気がする。ただ単に生物が長い進化の過程で(言われているように生物が進化して現在に到っていると考えるとして)獲得した形質に過ぎないのかもしれませんが、どうやら人間の行動を左右している感情を決めている基本ソフトはそういう獲得された形質ではなく、元々設計段階から組み込まれている気がしてならない。
で、Kさんの
『人間に存在意義があるのか?人間はどこから来てどこに向かうのか、人間は何か特別な存在なのか?人類と言う種は「何か意味を有して、歴史を形成しているのか?」、それともホモサピエンスという存在は何か別の存在に至る為の中間的存在であり、進化によって一段階上の存在にならない限りは「何も判明することはない」のか?』
如何にも秋に相応しい話題で、皆さん哲学しちゃうんですね。
単なる進化論的の延長線上で「人類とは?」と考えれば「偶然発生したものの意味は偶然ゆえ意味は無い」になってしまう。それとは逆に「ある意図の元に設計された存在」となれば当然設計者の意図こそが存在理由であり人生の本当の意味となる。で、色々見回せば「どうも偶然発生したものではないらしい」と結論付ける証拠が沢山出てくる。よって私自身は「偶然ではなく意図」的存在だと確信している。
で、その意図ですが、どこかの宗教団体のように「神が人を神に似せて創った」などのようには全く考えられません。その大きな理由の一つが生き物をコントロールする仕組みです。その仕組みの姑息さを私は感じて仕方が無い。この仕組みの基本は快・不快だからです。食欲にしろ、性欲にしろ、誰もが「快欲しさ」に無意識で行動してしまう。「快を求め続けるのが人生」という人が大半。で、そうした快や不快にたいして、「ちょっと待てよ、そんなに絶対的なものかな?」と疑問を持ち、このコントロールの仕組みに立ち向かう人が沢山出ている。そんな究極人間が仙人なんだろうけど、快不快のコントロールを外してみると見える世界がある(ようだ)。この世界を見ない限り、つまり快不快のコントロール下にあるまま、「快を求め続ける人生」を送っているだけでは「人生とは何か?」など考えても無駄ということになる。どうですかKさん。まずは手近なところで「山田さんの不食」から最も大きなコントロールを一つ外し、その上で「人は何処から来て何処に行くのか?」を考えてみてはいかがでしょうか?