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何となく、気が抜けて、な〜んもやる気がしない。
Kの鰯頭には新ネタの在庫もなく、「サタンと阿修羅の類似性」とか、黙示録の一節の「勝利の上に勝利を得るために出て行く」のは米日の今日の状況かな〜?などと言う思いも浮かぶが、とても、物にできる考察能力は今のKにはないな〜とか思って全て忘却の彼方に追いやっている。
人間に存在意義があるのか?人間はどこから来てどこに向かうのか、人間は何か特別な存在なのか?人類と言う種は「何か意味を有して、歴史を形成しているのか?」、それともホモサピエンスという存在は何か別の存在に至る為の中間的存在であり、進化によって一段階上の存在にならない限りは「何も判明することはない」のか?(全ての人類は新人類を生み出すための捨石という考え方)
そんな事を考えるのも良いのだが、それよりは寝ていたほうが楽とも思ったりする。
でも、あまりサボると忘れ去られてしまうので、何か書いておこうかな〜と無い知恵を搾ってみる。
どこかの市で「マナー違反を罰する条例ができた」というような話を最近良く耳にする。自由主義に振りすぎた弊害が各所に表れている。
郵便局の友人が良く愚痴るのは「ともかく、常識が無いお客様が多い事」らしい。ともかく、自分の義務は何も果たそうとしないで「郵便局のサービスが悪い」というのだそうである。
最も多いパターンは、通帳と印鑑だけ渡して「〜万円下げて、〜万円分は千円札で下さい」というパターンらしい。その窓口が新人で顔見知りであろうとなかろうと、身分証明などは提示する気も無く、そもそも車で来ているのに免許証も持ってきていない。(らしい)と言うことである。
郵便局は地元密着型のサービス業(厳密には金融業ではなく、両替業務は行なわなくても良いらしく、そもそも、業務の繁忙時は20枚以上の硬貨を出された場合は預入や切手販売などでも断って良いと前の規定には書いてあったらしい)であり、以前は地元の郵便局員が多く、少し大げさに考えれば「地元の人はみんな親戚」という感じで代書などもかなり行なっていたこともあるようだが、今はそうは行かないらしい。何でも事務センターというところでは筆跡まで検査していて、超厳しいらしいので、現在は「原簿を支店で持っている銀行などより、内部的には厳しい」というのが実情のようである。
なんでも、両替業務(小銭の預入を含む)ではかなり大変と友人は言う。他の金融機関(金融庁管轄で両替は義務となっている機関)は軒並み有料化したので、半端ではなく前より多い小銭が集まってくるらしいのだが、保管する場所も入れ物も不足していて、地方の郵便局からは大きな集中局に送付するらしいのですが「その硬貨を送る袋は、1ヶ月は返ってこない」らしいのです。その上で、硬貨がどこにも保管できないので金庫の横にでも置いておくと見つかれば「処分される(厳重注意から是正策を提出させられる)」らしい。で、お客様に事情を説明して断っても、苦情が出れば「厳重注意」されるらしい。
郵便局では「お客様にお客様の義務を苦情の出ないように、理解していただきなさい」と現場に求め「上層部では何のサポートも行なわず、ただ、処分する」だけ。ということらしいのである。しかも内部体制的には「商法上の法律から、20枚以上の硬貨は断らなければ業務が回らない設備状況にされていて、なおかつ、十分な理解を得るための説明要員の人員配置もない(処理要員は最初からない)」という何とも表現するのに困るような状況らしいのである。(形容区が思いつかない)
しかも、これが一時が万事であり、例えば小包の時間配達でも集荷でも「全く要員の配置はされていない」らしいし、「貯金などの新サービス(国債や投信販売など)でも全く要員配置はない」らしく、上部の要請をそのままやるためには「窓口を臨時閉鎖してやらなければできない」らしい。なんでも外回りの職員には「携帯電話を支給していない」ばかりでなく「カメラ付き携帯は顧客情報保護のため原則的に持込禁止」らしいので内部職員で対処しなくてはならないらしいのだが、その窓口要員が全く足らない状況なのに容赦なく「出張を命令して更に足らなくして、欠員補充は平気で1年くらい行なわず、しかも、超勤賃金もアルバイト賃金も減らせと嘯き」挙句の果ては「不払い残業が発覚した場合厳重処分」という。言うだけならば誰でも言える相反する命令を交互に出してくるという狂気の「無責任上層部」という事である。
で、現在の社会も似たようなものである。ゴミのポイ捨てなどは「常識問題」である。規則で規制するのでなく、倫理の問題であり、違反者に対しては周囲の目が注意するのが本来ならば正しいのであるが、最近の風潮は「個人の考え方を尊重しよう」であり、下手に注意をすれば「注意したものが馬鹿を見る」であり、それが、行政依存体質につながる。
「自分にしたいようにする=拡大的我が儘行為」が「結果的に権力構造の強い執行権」に結びつくのである。その中で割を食うのは「常に善良で真面目で正直な庶民」である。
小泉総理の高い支持率はこのような背景を基にして生まれた「強いリーダーシップへの期待」である。無政府論者的な考え方が広まれば広まるほど、一方では強力な「法規制が出来上がる」事になり、そのハザマに生きる庶民は苦しめられるだけ。というパラドックス的苦しみの袋小路に陥っていく。
これでは、自殺も増加するだろうし、少子高齢化は進むだろうし、人類という種の保存という意識も無くなっていき、刹那的な生き方をする者が増え続けるのだろうと思う。
どこかで、この流れを断ち切る必要がある。が、多分「小泉批判だけでは駄目」なのだろうとも思っている。Kは小泉氏は馬鹿だとは思っているし、手法はアホだとも思っているが、それでも歴代首相の中では「頑張っている方」だとも思っているし、苦労知らずの坊ちゃん総理だとは感じているが、憎しみ的な先入観は持ってはいない。
それにしても、困ったもんである。