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(回答先: 知恵者が陥る一元論 投稿者 考察者K 日時 2005 年 11 月 09 日 21:14:23)
ご自身の書いていることをもう一度じっくり読み直してみたらどうですか?
タイトルを「知恵者が陥る一元論」としながら、財政赤字と政府債務残高の区別をするひとの考えを批判し、そんな区別は意味がなく「どちらも借金」だと言うひとのほうが一元論に陥る可能性は低いだろうと説明しているのはちょっと異様だ。
(一元論を比喩的に使っているとしても、Kさん自身が「視点を狭める」などと書き、一つの概念でなんでも説明できると考えとしたほうが一元論に近いニュアンスを持っているのだから、「どちらも借金」と説明して済ましているほうが一元論に近いと言える)
過去の供給活動に支払われてしまったおカネの累積である政府債務残高(ストック)は、債務が履行されるなら現在の経済活動(GDP)にほとんど影響を与えないもの。
(民間金融機関や個人が保有している国債に対し利払いや償還をすればいいだけの話である。金融機関や個人が国債を保有し続けているということは、それに相当するおカネの有利な使い道が他にないということだから、償還で支払われたおカネも国債に戻ってくる可能性が高い)
一方、財政赤字(フロー)は、政府部門が需要を創り出し供給活動を誘発する(支える)おカネの支出であり、現在の経済活動に大きな影響を与え、物価変動(インフレーション)も引き起こすもの。
現状は中央政府が35兆円の赤字財政でもデフレだが、国際競争環境の変化・高齢化を伴う人口減少などで国内の供給活動力が劣化すれば、財政赤字が「需要金額増加>供給量増加」につながり、抑制が難しい“悪性インフレ”を引き起こすことになる。
高度経済成長期のインフレは企業の設備投資と政府部門の公共事業そして個人住宅購入を主たる要因として継続したが、固定資本形成(設備投資・公共事業)は、供給活動の生産性を上昇させ物価を抑制し実質賃金のアップに寄与するとともに、国際競争力の上昇に貢献し貿易収支の黒字を拡大させる原動力でもあった。
しかし、国際競争環境の変化や高齢化を伴う人口減少などで供給活動力が劣化するなかで起きるインフレは、供給力増大という物価を抑制する要因もなく国際競争力のアップともほとんど関係ないので、インフレがインフレを呼ぶ悪性のものになる。
(輸入依存度が高いなかで円安も同時進行するのでさらにインフレが進行する)
インフレが高まれば保有既発国債の“価値”が劣化し、早くモノに替えたほうがいいという動きも強まりさらにインフレが進むと同時に、民間に引き受けてが少ないから日銀の引き受けに依存しなければならない赤字財政の割合が増大し、これまたインフレを助長することになる。
日本は、中国など他の国民経済の台頭による競争力劣化や高齢化を伴う人口減少による供給力衰退を見越した上でのグランド・デザインが求められている。
そのグランド・デザインのなかには、輸入規模に見合う輸出競争力(供給力)とともに、就業人口と年金受給人口のバランス変化を生産性の上昇と就業者の所得増加を基礎とした配分の変容で乗り切る政策が含まれる。
公共事業はともかく、国民の生活そのものに関わる年金や社会保障の“切り捨て”は限度がある。
年金や社会保障を赤字財政に依存し切った財政構造のまま上述のような未来が現実になれば、高度経済成長期とは違って、救いのないインフレに国民の多くが苦しめられることになる。
だからこそ、フローである財政赤字とストックである政府債務残高の区別はきちんと踏まえなければならないと考えている。
================================[参照]=============================================
[Kさん]
「【財政赤字と政府累積債務(債務残高)の区別】
というのは何でしょうか?もちろん、赤字と言うのは収支決算においてプラスかマイナスかを表す用語ですし、債務と言うのは「返済義務のある借金」であり、累積が付けば「それが、積み重なったもの」と言うのはKでも分かります。しかし、国家破産を論じる中で使用した場合には、どちらも「国や地方が赤字公債を発行してできてしまった。1000兆円を越える借金(負債)」という意味だろうと思います。こんなものを厳密に書かなくとも「意味さえ通ずるのならどうでも良い事」と言うのがKの考え方です。ただし、政府累積債務には「別の意味がある」というのなら「Kは馬鹿なので分からない」と考えてもいます。(ここは、今回の主張に関係無いので、ここまでです)
Kは思うのですが、知恵者ほど「つまらない事に拘る」と言う傾向があるようにも思います。
拘りを持つ事は悪いことかどうかは別にして「視点を狭める」のはある程度は予想されます。
食事の味とか音楽の楽譜などに拘るのなら、分からないこともありませんが、それだって、そのために新しい発見から遠ざかるという面もあるでしょう。
思考と言うものを考えた時、拘りは一種の憑き物であり、たちの悪い一元論への道にもなり得るでしょう。所謂「思考停止」と言う事です。
そう書いているKだって、何時そうなるかもしれませんが、Kは「いい加減で適当」なので可能性的には低いだろうとも思います。」