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(回答先: 究極の状況において、医師の手は「他人の手」なのか 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 10 月 23 日 01:44:20)
デラシネさん、始めまして。反論有難うございます。ご返事は少々長くなりそうです。
先ず、母に聞いた昔話から。戦前のことですが、母の姉という人が病気で亡くなった時のことです。当時は不治の病だった結核で長く病床にあったそうですが、死の前日に医師が注射をし「明日お亡くなりになります」と家族に仰ったそうです。母の解説では、死の間際にみっともない振る舞いがあっては本人にも家族にも不幸だからとの配慮があったようです。医師独自の判断だったのか、それとも家族の依頼であったのかは聞いていません。
いささか観念的な議論になりますが、死を二つに分けてみたいと思います。死そのものと、生の終末としてのそれです。死そのものは究極の個人的問題であると思いますが、生の終末は決して個人の問題とは思いません。それは生の一部であり、生が人々との共生に他ならないとすれば、死もまた人々が共有するものであろうと思われます。死ぬ者と生き残る者の間の共有です。
一般的意味での共生は、社会という言葉で表わせると思います。社会には、多くの人々が共に生きる為の制度があります。終末医療や安楽死について社会的な議論が必要な所以です。
もちろん、共生を制度に他ならないと考えるのは大間違いでしょう。何よりも身近な人々の信頼や情愛こそが、共生という言葉に実質を与えるものと言うべきです。それは、制度と共にありながら制度の隙間を満たし、制度を生きたものにしています。その意味で、制度の介入しない場を考えることは大切だと思います。
>生を尊ぶならば、むしろ人々が「安心して死んでゆける」倫理なり方法なり制度を考えるべきでしょう。
>究極の状況において「制度は介入しない」というのも制度であると主張します。
このデラシネさんの見解には、基本的に同意できます。ただ、現実の制度設計はどのように可能なのかという点が悩ましいですね。
>人の生死においては生命倫理や行政が介入しますが、ほんらい「人の死の床」においてはそういった概念や規制はそぐわないものだと痛感しております。
>ではどういった言葉をあてるのが適切かは存じませんが、「素朴なもの」程度が無難かもしれません。
デラシネさんの仰る「素朴なもの」を私が理解できているかどうか不明ですが、そうした言葉を制度外の制度として考えたとして、実際に有効に機能するかどうか疑わしいと思います。
死に行く者と生き残る者が共有する終末においても、そこにどれほどの信頼や情愛があったとしても、また霊的事象と言われる事柄を考慮しても、別れは別れであり離れ離れになる者同士であれば、他人であるという辛い事実を受け止めるべきではないでしょうか。死を受け止める、死を受け入れるというのは、受け入れ難い事柄をそれでも事実として受け入れることではないでしょうか。
>究極の状況において、生命維持装置のスイッチを切ったり、一本の注射を打つその医師の手は、患者にとって「他人の手」なのだろうか?
「他人の手」だと考えるべきです。苦痛から救い出してくれる「他人の手」です。但し、それは共に生きている他人です。終末の苦しみを共に苦しみ、生き残ることを苦痛に感じてくれる他人です。手を下したその他人は、生き続けることへの苦痛と罪悪感に苛まれることでしょう。彼には、癒しと罰が必要です。彼が死者の後を追わない為にも。
>究極の状況、つまり生がまさに終末を迎えている段階で、患者本人は苦痛に喘ぎ、誰もその痛みを取り去ることもできない。
>その状況において、もし彼(患者)が一刻も早い死を望み、物理的にその願いを叶えてあげられる人間がその場にいる医師であったなら。
>彼(医師)は患者を苦界から救う方法を知っている。
>一本の致死量のモルヒネか、筋弛緩剤を打つことです。
>殺人なのでしょうか?
殺人です。但し、自己の全存在を賭けた殺人です。彼は、社会による裁きを必要としています。人々に自己の運命を委ねるのです。自ら手を下した相手がそうであった様にです。