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(回答先: 殺人の許容ということではない「単に楽に死ぬ」という意味の安楽死にはどんなお考えをお持ちですか? 投稿者 膝枕 日時 2005 年 10 月 22 日 19:41:19)
>安楽死は、最良の場合であっても自殺幇助の一形態です(そうでなければ、体のいい殺人です)。
>問題はむしろ、許容し得る殺人があり得るかどうかではないでしょうか。
これは膝枕さんへのレスではなく、張良さんへの反論です。
順序があるので、膝枕さんご投稿の下につけさせていただきました。
件名から、小生が何を言いたいのか、ある程度はご推察いただけると思います。
「究極の状況」がレアケースではなく、誰でも直面する可能性があることなので、ことは重大です。
究極の状況、つまり生がまさに終末を迎えている段階で、患者本人は苦痛に喘ぎ、誰もその痛みを取り去ることもできない。
その状況において、もし彼(患者)が一刻も早い死を望み、物理的にその願いを叶えてあげられる人間がその場にいる医師であったなら。
彼(医師)は患者を苦界から救う方法を知っている。
一本の致死量のモルヒネか、筋弛緩剤を打つことです。
殺人なのでしょうか?
例えば小生が現代医学では救われ難い病に倒れ、ただただ苦痛に苛まれながら死んでいかざるをえない状況となったら、躊躇なく「眠らせてほしい」と医師に懇願するでしょう。
可能であれば懇々と眠らせてもらい、痛みを感じることなく静かに息をひきとりたいと願います。
それが可能であれば、どれほど安心して生きてゆくことができるでしょう。
そういった幇助が医師にできるものかどうか、小生は知りません。
究極の状況において、生命維持装置のスイッチを切ったり、一本の注射を打つその医師の手は、患者にとって「他人の手」なのだろうか?
人の生死においては生命倫理や行政が介入しますが、ほんらい「人の死の床」においてはそういった概念や規制はそぐわないものだと痛感しております。
ではどういった言葉をあてるのが適切かは存じませんが、「素朴なもの」程度が無難かもしれません。
小渕前首相が脳梗塞で倒れ、その死が政治的意図によって「延命」され続けたことは皆さんご存知だと思いますが、小生が聞いた話では生命維持装置に繋がれた小渕さんの体は「生きながら腐敗」し、まさに「生きる屍」であったそうです。
生きる者の思惑により、このような戦慄すべき状況を生み出すことを許しておきながら、一方では死にゆく者の苦痛と切なる願いは放置する。
いったい医療とは、生命倫理とは誰の為のものなのか?
生を尊ぶならば、むしろ人々が「安心して死んでゆける」倫理なり方法なり制度を考えるべきでしょう。
究極の状況において「制度は介入しない」というのも制度であると主張します。