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(回答先: Re: 死に方=生き方=摩訶不思議 投稿者 一鍼多助 日時 2005 年 10 月 18 日 20:57:44)
『この様なところに私は、人間の生命(死)の限りない不思議さを感じるのです。
これは一体、何なんでしょう?』
それは案外簡単な理由ですよ。デラシネさんが幾度と無くそのあたりを何気なく語ってます。つまり人の本質は「物質」か「それ以外のもの」か?という認識の差です。
単に生き物は「生理的活動をしている物質」と考えれば、摩訶不思議、結局はそう思うのは単なる錯覚・・・と私などは思っています。
『これは私だけの感じ方だけかも知れませんが、
「愛情を他者に注ぐ」と「自己認識の深化」とはほとんど同じですね。
自己はユング流に言えば内面の宇宙だそうですから、
だめな自分を認めつつ、その広大な宇宙の根源に向かっていく手段として、
他者との関係があるのかも知れません。』
なかなか鋭いんじゃないですか!
「駄目な自分を」という箇所は同意できませんが、この世を生きる意味はまさに「知る」という目的の為と私も思います。こうして「知った」人というのは大抵自分と他人を分け隔てては認識しません。自他という隔たりが無いからこそ、他者を自分と同じように、いや自分以上に愛せる。逆に言えば、名誉だ金だ地位だ名声だなどと肩肘張ってそっくり返っている人というのは自分がとにかく大事で、大切なことを学ばず気が付かず、勘違いしてしまった落伍者とも言えます。
で、本題の「生と死」なんですけどね、確かに大怪我とか深刻な病気とかになったら「とにかく痛いのは勘弁して欲しい」と思うくらいで「ああこれが私の寿命なのね」とたぶん思うだろうし、「アガリスクだ気功だお祈りだ」などと悪あがきは多分しないでしょう。
というより、実は私は幾度も死んでいても不思議でないという体験をしています。今考えても「生きていたのが不思議」です、先日も久しぶりに家族が集い昔話になった時、やはり行き着く話題は「どうして死ななかったのだろう?」でした。長生きするとは思っていませんが長さなどもうどうでもいいことです。死が私(と伴侶)にいつ訪れるかはしりませんが、不思議なくらい執着はありません。自然に任せてます。それまでは伴侶とお手手繋いでこの世の美味しい空気を吸い、木々の営みを眺め、波音を耳にし、砂浜の砂を足で感じていようとただそう思ってます。