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(回答先: 日本のメディアは「追いかけて殺到、追いかけて自粛」の繰り返し(綿井健陽のチクチクPRESS) 投稿者 gataro 日時 2005 年 12 月 26 日 00:02:29)
http://blog.so-net.ne.jp/watai/2005-12-22 から転載。
前回の「殺到か、自粛か」の続きを少し。
このままいくと、12月27日あたりに「犯罪被害者等基本計画」が閣議決定される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051220-00000013-mai-soci
犯罪被害者の名前の発表を実名にするか、匿名にするか、警察の側が判断するということに関して、メディアがいま盛んに取り上げている。もちろんのこと、メディアの側は「実名で発表」するように要請している。新聞協会も「事件・事故を正確に客観的に取材、検証し、報道するために実名は欠かせない」として意見書を出した。
しかしそうした動きの一方で、あの建築士の自宅の家宅捜索の取材現場をテレビで見ると、「ダメだこりゃ」(by いかりや長介)と思う。
「現場は騒然としています!」とリポートしていたが、実際には「集まっている報道陣だけが騒いでいます」だし、「姉歯さん、何か一言!」と言うのが関の山だった。家宅捜索そのものは淡々と粛々と進められていたように見える。メディアがこのように現場で「集団で張り切る」ときほど、コワイものはない。以前JR西日本脱線事故のときにも書いたが、これを「集団的正義感」と再度命名する。http://www1.odn.ne.jp/watai/050428.htm
犯罪被害者の取材・報道に対して「節度ある取材」を最近よくメディア側が自主的に申し合わせるが、「犯罪加害者」(よく考えると、まだあの建築士は現段階では逮捕されたり、『容疑者』ではないので、だから『氏』がついているわけか)側に関しての取材・報道が80年代の三浦和義氏のロス疑惑事件のころから何も変わっていない。
だから、結局犯罪被害者の家族や遺族側から見ると、あの建築士の家宅捜索の現場光景は、「私たちのときもそうだった」「もしメディアが取材にきたらあんな風に取り囲まれる」と想像する。したがって、メディアの取材がコワくなり、誰か個別の記者は信用できても、「メディア集団」としては信用することができない。
「犯罪被害者の名前の公表を警察に委ねるわけにはいかない」とメディア側は言うが、あの建築士の家宅捜索の現場は、かなりの数の警察が何とかあの建築士を囲んで「守った」ので、まだあの程度で済んでいる。もし警察があそこにいなかったら、さらに「報道陣だけが大混乱しています」となるだけだろう。もうすでに出ているかもしれないがケガ人、事故だって起こるぞ。メディアの取材現場の「安全管理」は警察によって何とか保たれているという不思議な構図だ。
被害者側の取材でも、たとえ「加害者側」の取材でも、まずあの「取材体制」(取材というより、殺到しているだが)をメディア側で自主的にどうにかしない限り、今後ますます犯罪被害者の取材も報道は、法からは縛られ、遺族や家族からは信用されなくなり、そして最終的に自分たちの首を締めることとなる。
「報道の自由」とか「言論の自由」という言葉は、そもそも「報道・言論活動に関わる者」たちのためにあるのではない。もしそれらに関わる者のためだけにある権利ならば、別になくしてもよいとさえ思う。
あの言葉は、「報道や言論に関わらない者」、何かを訴えたくても訴えられない、何かを伝えたくても伝えられない人たちのためにある言葉であり、彼らに代わって彼らのことを「報道したり、言論の場で追及したりすること」がメディアの役割だ。こんなこと本当はここで書くまでもないが、あえて言っておく。家宅捜索の現場に殺到することは、「報道・言論の自由」とは何の関係もない。「メディアの殺到体制」を改めない限り、「メディア規制反対」の声はむなしく響くばかり。殺到→自粛→殺到→自粛→殺到……さて、どうやってこのサイクルを止めようか?
「殺人現場にやじうま達が暇潰しで群がる
中高生達が携帯片手にカメラに向かってピースサインを送る
犯人はともかくまずはお前らが死刑になりゃいいんだ
でも このあとニュースで中田のインタビューがあるから
それ見てから考えるとしようか
LOVEよく冷えております
時代の向かい風も受けて」
(「LOVEはじめました」ミスターチルドレン)
http://children.cside5.jp/lyrics/index.cgi?no=91&point=5