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(回答先: 「一次情報を取材するブログ」──泉あい(「GripBlog」ブロガー) インタビュー 投稿者 外野 日時 2005 年 11 月 05 日 15:56:35)
11月1日のAmazonホームページ
数日前、藤原肇氏の著作『小泉純一郎と日本の病理』がAmazon.comの本の「トップ100」で一位となった。これはこれまでの藤原肇氏の著作の多くを知る者にとっては驚きであった。
何故なら、氏の著作が如何に優れたものであろうと、大メディアにとってタブーが本の内容に含まれるために、あるいは、大メディアそのものが痛烈な批判の対象となっているために、ついにどこの書評にも取り上げられず、従って多くの人に知られないまま書店の片隅に置かれて終わってきたからである。
今回も、Amazonで”一位になった話題本”にもかかわらず、大メディアが書評で取り上げることはおそらくないのではないだろうか。
ともあれ、ネットの可能性の一つを垣間見せてくれる一事だった。
言論の自由が存在すると考えられている社会では、基礎事実が報道されているという神話があり、日本で活字になったものが事件の全容を伝え、それが犯罪を立証できなかったので仕方がないという態度が、一種の社会的な暗黙の諒解になっている。そして、この基本原理が人びとの意識を支配しているために、狡猾な権力者にそれを利用されている懸念があり、初期の段階で警察官僚出身の秦野代議士による、もみ消し工作による情報操作が試みられたとか、検察当局がやる気を持っていなかったと伝えられたが、記者クラブ制の現状からすれば有りうる話だから、これは心配のし過ぎとは言えないことになる。
こういった種類の苛立ちを感じることで、不必要なストレスを人生に持ち込むのは、実に愚かなことであり、「あんな不祥事に関りを持たないで、のんびり瞑想して生きていればいいのに」とよく忠告を受ける。しかし、余計な発言をして権力者に怨まれたり、親しい人に生命の安全を危惧させてしまうにしろ、歴史の証言を残して置くことは一種の義務であるし、歴史感覚の疼きがそれをさせるのかも知れない。(『平成幕末のダイアグノシス』藤原肇著より)
ジャーナリズムの第一義的な仕事は何はさておいてもこの世の中の基礎的な事実の提示にあると思う。当然のことなのだけど、この基礎的な事実の提示なくしては、人は如何なる思考もできないし、本当の問題の解決もはかれない。
伊丹十三氏は「テレビの中の世の中は”バーチャル世の中”だ」と言ったが、『バーチャル=基礎的な事実ではない、歪曲された、あるいは大事な隠された部分がある』情報でいくら問題を解決しようと思っても、また考えても、項が間違っている数式のようなもので正しい答えは導き出されないのだ。
実際、現実に何か問題にぶつかった時、大新聞・テレビほど役に立たない代物もない。
泉氏が述べている
『「泉あいの情報だったら、信用してその情報を土台に議論ができる」というようになればいいなと思っています。そういう状況に持って行くことが、いまの私の夢ですね』
はその点、ジャーナリズムの何たるかを考えさせてくれるものだ。
また佐々木氏の
『私個人としては、本当に一次情報の取材と論評・分析を切り分けられるのかどうかについては、かなり疑問があります。完璧に客観的な取材なんていうものはあり得なくて、どのような質問をするのか、どのような会話のキャッチボールをするかによって、取材にも主観は必ず入るのではないかと思います』
なども考えるところが多い。基礎的な事実とはいっても、何が基礎的な事実なのかという、選択と推察・洞察力の問題もあり、「意志と表象としての世界」ではないが、そこには人間の主観の問題もかかわってくるからだ(僕は問題提起自体はそれぞれの個人の自己検証を経た問題意識でやればいいと思っている。いろんな人がいていろんな問題を考えることはへたに客観を云々するよりも深いものが得られると思う)。また、分野ごとの深い専門知識が必要なのか否か、というような問題もある。さらに、その基礎的な事実に対する判断をおこなう必要がどうしてもあるというような場合はあるのかという問題もある。
しかしながら、現今のマスメディアの問題はそれ以前の人的なものである。
たとえば、≪メディアの情報操作 --狂った評価指標--http://www5a.biglobe.ne.jp/~NKSUCKS/johososa.html≫のような状態で技術論など言ってみたところで益はない。
テレビ業界がライブドアに拒否反応を示す理由とは (佐々木俊尚) 一理あるような…
http://www.asyura2.com/0502/senkyo8/msg/1177.html
投稿者 外野 日時 2005 年 3 月 28 日