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(回答先: 安楽死について 診療経験も踏まえエッセイ風 投稿者 町医者 日時 2006 年 4 月 02 日 22:51:59)
町医者さん、こんにちは、はじめまして。
医師のお立場からの安楽死考を私なりに心に深く受けとめ、少し遅くなりましたがレスしてみたいと思い立った次第です。
私自身は今現在死が差し迫るような病いを患っているわけではありません。但し、自覚していないだけで死はすぐそこに忍び寄って来ているのかも知れません。四捨五入するまでもなく還暦と謂われても否定できない年嵩に至り、既に癌や糖尿病等の成人病の予備軍どころか本隊とも思しきクラスターに入ってしまいました。最近はちょっとした傷でも完治するまでに以前の倍は時間がかかるようになり、我が身体の各部品も再生が利かなくなりつつあるのだと痛感させられる昨今です。
さて、“安楽死”についてですが、嘗て呼吸困難で死ぬかも知れないと想うほどの苦痛を味わった者として、また何時の日か病気や患者になる身として、概ね私は“安楽死”を容認する立場にあります。何故なら、死を免れ得ぬ病においては苦痛を逃れたいとの我がままは許されてもよいのではと思うからです。そして、介護に関する負担や苦しみに家族が耐えることにも限界があるでしょうし、それぞれの家庭の事情によって人々の思いやりや善行が制約を受けることは仕方がないと思われるのです。勿論、“安楽死”の裁断にあたっては第一に本人の意思が尊重されるべきで、家族の心情は従属的なものとならざるを得ないでしょう。
そこで、生前にその意向を家族や近親者に伝えることもなく本人の意思の確認が不可能な場合が問題なのですが、やはり医師と法律家による“安楽死”の制度化で対応すべきではないでしょうか。けれども、“安楽死”は医師や法律家と市井の人々が協同して行使すべき自決権の一環として、制度化の作業過程においてはでき得るかぎり公権力の介入を排することが望ましいと思います。
>結論的には、個人レベルで、社会レベルで、「死」を忌み嫌ってタブー視するばかりではなく、真剣に向かい合って、論じあう事が必要と思います。人生のフィナーレなのですから。また、生死は表裏一体で、死と真剣に向かい合う事は、人生と向き合う事になり、人生を有意義なものにしてくれる場合があります。
死と真剣に向き合うには現実的な問題として“死”の事象に遭遇することが必要でしょう。人間の自己保存力には“死”を想起することによって増幅されたり、“死”を忘却できるからこそ生きていられるといった両側面があると想います。また、死は全体的には間接的な概念として括ることが可能ですが、個別的には直接的で峻厳たる現実であることに相違ないでしょう。
人間は個別的な意思を有する暇(いとま)もなきままにこの世に生を受ける宿命にあります。かかる宿命から発する共通の運命を全体的な帰趨として他者に委ねるべきなのか、それとも死に関する周辺の事象(プロセス)を含めて個人が自ら選択することに意義を見出すべきなのか、大別すればこの二つの身の処し方があるように想います。
制度が完全化されているかぎりにおいて、また、生前に意思が伝えおかれているかぎりにおいて、私は“安楽死”を望みますし、願わくば、ジタバタしたり逡巡しながら最終的には他者の力を借りることになったとしても、少なくとも人生の幕引きの始動は自身の手で行いたいものであります。
以上は末期患者の立場に身を場合の、私流の無神論的死生観に基づく極々勝手な想念による雑駁たるものになりましたが、どうかご海容のほどを。けれども、死に至る人の心情を少しでも理解しようとする心根が感じられる町医者さんのような人が一人でも身近にいるだけで、人は心強く幸福な心地で死に臨んでいけると想われますし、それは同時に大いなる末期を生きることにも通じると考えます。
また、会いましょう。
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