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以前、オランダにおいて「安楽死」が国会で認められた旨、報道があった。他のベネルクス国においても検討中らしい。それ以前ではオレゴン州にて認められていたそうだ。日本では脳死の問題を扱ったことを知っているが、安楽死については扱った記憶がない。
やっぱり、愛する人や家族に見守られ、自分も何か遺言めいた事が言えるくらいの意識レベル・苦痛レベルの臨終が自分には理想的だと思う。
以前、◯◯大学でKCl(塩化カリウム)を急速静注して安楽死をもたらしたという事が問題となった事があった。
こういうのを安楽死論者の書いた本でみたことがあるが、「積極的安楽死」というのだそうだ。
また、人工呼吸をすれば延命はできるだろうが、それを「敢えて」やらないといった場合の事を「消極的安楽死」とかいうのだったろうか?
実を言えば、後者については自分も経験が少なからずある。
どういう場合かというと、肺がんが主気管支分岐部にも増大し、気管閉塞は火を見るより明らか、末期癌で手術は死期を早めるだけで不可能と判断され、抗ガン剤による治療中だったが、副作用が、期待される効果を上回った(抗ガン剤投与にもかかわらず、癌が進行・副作用によりむしろ予後が短縮される可能性が上回った)。既に苦痛を現存の薬剤でのコントロール不良。
そんな時に患者急変。家族と相談。「本人の苦痛になる延命しなくてよい。」という方針を確認し、鎮痛・鎮静による副作用死の可能性もある旨をご理解いただいて、十分観察下におきながら、塩酸モルヒネを持続静注したりする(もちろん、呼吸中枢抑制で呼吸数や深度低下、交感神経抑制で生きる気力低下で血圧低下、尿量低下で危険、死期を早める危険が高いが、医療者として苦痛を除いてあげたい)。 こう書くと、「積極的安楽死」に近いが、目的はあくまでも死期を早めるためでなく、苦しんでいる患者の苦痛を少しでも和らげるためと自分に言い聞かせる。
予後のQOL(quolity of life)が患者にとって苦痛に満ちたものであると予想されるとなれば何が何でも延命・心肺蘇生は気がとがめる。
逆に、挿管人工呼吸をしなかったため予後が縮む事にも気がとがめるが、、。
家族の意向は確認したが、肝腎の本人の意向はどうなのか?と、言われそうだ。
残念ながら、確認とれない場合が殆どだ。
気管送管するときは急変時が多い為、意識レベルダウンとか、すでに昏睡とか、寝たきりだったら認知症になってるとか、本人の意思を正当に評価できる状態でないという場合がほとんどなのです。
しかし、もし、可能だったとして、そういう場合は逆に、まだまだ見込みがある事に成るでしょう。
じゃあ、急変で、にもかかわらず意識もクリアで、、。でも、死を迎えそうなとき、、、、。死ぬ事が前提になる事を患者本人に急変時話せる訳がありません。
ならば、まだ状況がそこに至らない時期に話しますか?
病気で弱って、病気の性質上、医者の言う事を聞いて来たが思ったように良く成らず(悪くなり)、前途に不安を持ち、それでも病気と闘っている患者さんにそれを言うのはかなりつらいのです。話したとて、不安でただでさえ低下している食欲も低下し、体力も衰弱する。残念ながら自分はそれをした事はありません(癌告知をした患者さんにもです)。できないのです。
でも、欲目かもしれませんが、末期で急変した患者さんは直接医者に言われなくても、何となく自分の運命を悟って、「こんなに生き続けるのがつらく、もう治療効果がないなら、無理に延命しないで欲しい」と言ってる様に聞こえる気がします。少なくとも自分はその時点の患者の苦痛を考えると、自分がその患者ならそう思うだろうなと思います。
なら、「癌治療前とか、健康な時とかに、そういう状況のときどうして欲しいか家族に告げて置く」のがいいかもしれませんが、癌末期には実際なってみないとわからないかもしれません。実際、死を目前にすると、「どんなに苦しくとも生き延びさせて欲しい」と思うものだという話を聞いた事があります。
本人の同意の問題は解決できません、、。
本人の同意の問題、できれば自分の人生の最期の究極の選択は、医者や家族の判断に委ねたくないかもしれません。やはり、平時に考えておく問題だと思います。もし、最期になって気が変わったのなら、それはそれでいいでしょう。
前者の、「積極的安楽死」問題は、やはりいけないと思うが、、。
KClを静注などはたとえ人道的でも「殺人」になると思う。
世間に知れ渡らなければ、病院でそれを行えば「完全犯罪」である。
認められながらそれをやれば、人命蔑視だ。
若者の殺人の報道で、教育の有り方の問題で、「なぜ人を殺してはならないか」という問いにある人が、「ひとりひとりが世界に二人といない・現在のみの世界唯一の存在。「かけがえのない」存在だからである。個人にとっても2度とない人生だからである。」という意味の事をいっていた。
例え、死ぬのが時間の問題の患者でも、その事実は変わらない。「積極的な安楽死」、人工呼吸器の酸素をとめるなどの、人為的な安楽死はやはり認められないし、認められてもそんな事、家族が望んでもさせられたくない!
現代医療は薬剤さえうまく使えばかなりの程度苦痛を和らげられる様になって来ている。なるほど、状態不良時の麻薬や鎮静剤で呼吸停止・ショックの危険はあるが、「殺すのが目的」ではない。「苦しみを和らげるため注意して使用したが結果として呼吸停止した」というのと意味が違う。また、そうならば、何とか許されてもいいと思います。
また、麻薬・鎮静剤のなかには「拮抗剤」という、作用・副作用をうち消す薬があって、副作用が危険そうな場合には、いつでも拮抗剤を投与できる準備をして、麻薬・鎮静剤を投与したりもできます。
あくまで、患者を尊重する、厳格な姿勢が問われるのと思うのです。
また、簡単に安楽死を認める事は「安易に走る」事になる可能性がでてくるかもしれない。
1自殺志願者が苦しまなくても良い「死ぬ方法」
2殺人志願者の完全犯罪の方法
3高額医療費からの回避(個人・社会)
4考えたくないが、、医療スタッフが重傷者を担当した場合のつらい・長期の診療・看護からの解放
対策として、
1.条件を厳しく
2.知能犯なら可能か?医者が手を貸せば(首謀なら)簡単かもしれない
3.個人負担はかなりきびしい事が実際あります。家族が人工呼吸管理長期でサラ金から金を借りて、などという事はよく聞いた事があります。しかも、国策で医療費自己負担は増えてきている。社会医療費問題も厳しさを増してます。でも、何とか社会保障の充実など回避できないものかと思います。
4.そんな気も起きかねない様な野戦病院さながらの病棟ではふっとそんな事を考えたくなる気もわかりますが、、。十分な人数のスタッフの確保。でも、診療報酬が減ってきてて、どの病院でもスタッフが減少して来ている様な気がします。できれば、医師もせめて当直明けは半日は代休にすべきです。
安易に安楽死を認める事は以上の危険性をはらんでいると思います。
結論的には、個人レベルで、社会レベルで、「死」を忌み嫌ってタブー視するばかりではなく、真剣に向かい合って、論じあう事が必要と思います。人生のフィナーレなのですから。
また、生死は表裏一体で、死と真剣に向かい合う事は、人生と向き合う事になり、人生を有意義なものにしてくれる場合があります。
末期癌を告知されてはじめて、「人生のすばらしさを感じた。」「毎日感謝の気持ちを持って生きられる様になった。」「一瞬一瞬の時の流れがいとおしく、かけがえのない時間に思えた。」「自分が人生においてすべき事がわかった。」という人の言葉を聞いた事があります。
なんとなく10年生きるのと、輝いた1ヶ月生きるのと、QOLとしてはどうでしょうか?
昔の角川映画に「野性の証明」というのがあり、テーマ音楽の歌詞に、
「男は誰もみな孤独な天使。笑って死ねる人生、それさえあればいい。」
有る意味、「笑って死ねる人生」コーディネーターもまた、医療の大事な仕事かもしれません。
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