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(回答先: 秩序形成と個人主義 投稿者 Carry That Weight 日時 2006 年 2 月 25 日 01:05:14)
>Carry That Weightさん お久しぶりです。
>【しかしながら、『公平公正』『倫理観』『価値観そのもの』に、『客観的な判断基準』が存在し得るでしょうか?】
ここは難しい所ですが、「自己中」「利己主義」のみを理由にした行動は国家・民族を越えて「他人は嫌がるのではないか」と考えています。
例えば「殺人」「窃盗」「詐欺」と言った物は、万国共通の悪的な行為と考えられるでしょう。一部の例外として「神のため」とか「民族のため」といった場合には「犯罪認定」が外されますが、あくまで特殊条件下です。
>【『良識』『悪意』といった捉え方も、立場・環境・国家・民族・文化等によって『解釈が異なる』のは自明です。】
確かに、作法とか礼儀という面では、民族などで違いはありますが、「他人が嫌がる行為」は避けるのが『良識』です。右手で握手を嫌がる作法の国では、その行為は避けるのでしょうが、それは「表面的な行動形式」でしょう。
『悪意』というのは「自己の利益もしくは満足を得るため」に「他人の権利とか人間性を無視して行う行為」と定義すれば、表面的な行動形式は違っていても、あらゆる場面で普遍的に通用する概念となるのではないでしょうか?
>【勧善懲悪的『月光仮面』は実在し得ません。】
ある現象に対し、規制するもしくは規制を緩和する。という意味においては「勧善懲悪」という事は実在しない。とも言えるのかもしれません。
全ては試行錯誤の途中過程の「実験政策」と考えれば、それは、分かりやすいでしょうが、目指すべき目標は「一人でも多くの人が幸福と感じる未来社会の実現」と言う事ならば、ほとんどの人から共通認識は形成されるでしょう。
確かに一部の人もしくは組織では「そんな物は望まない」という意見はあるかもしれません。ただ、多分ですが、そのような場合には「主体的個人(組織)が他人(他の組織)より幸福と感じる未来の実現」を目指しているのではないかと思います。
ちょっと分かりにくい例などを示すと「キリスト教徒」は「他の宗教より、キリスト教が多数を占める未来を神は望んでいる」と考えているかもしれませんが、それは「神の名を借りてはいますが、単なる自己満足」であり、自己中心もしくは組織中心的な(他の人もしくは組織に対する)『悪意』から生まれた考え方なのだろうと考えています。
>【存在する=多様性の否定=絶対価値基準のみということになりますからね。】
自分が存在する事によって、他人に依存性を持つ事になる(他人を不幸にする。もしくは迷惑が掛かる)と言う部分はあるでしょう。また、みんなが「同じように幸福になる」と言う事は「多様性の否定に繋がる」という危険性はあります。
ある人は「裸電球の下で家族が揃って食事ができれば幸せ」を感じ、ある人は「六本木ヒルズで、誰にも邪魔をされずに、好きな物を好きなだけ食わなければ幸福は感じない」という事はあるでしょう。
確かに、他人が何をどうすれば「幸福感を得られるのか」を分からないのですから、絶対価値基準は存在できず、無理に存在させようとすれば「為政者が作った基準で幸福感を感じろ」という強制になる危険性はあります。
幸福概念の押しつけ行為でしょう。個性無視であり、画一的な基準の設定を為政者側が作る事になります。
しかし、それは、考え方と工夫でしょう。そうならないように「考察していく」事が大切でしょう。
個人個人が求める幸福のベクトルというのは様々ですが、他人より幸福になりたいという部分については「我が儘」として切り捨てる。(ただし、頑張った能率給という部分で、他人より努力した部分は、ある程度評価しても良いが、一定限度までで、無限の格差は付けるべきではない)という考え方が妥当だろうと思います。
個人の幸福のベクトルが違うのですから、実現は「個人が設定して実現させる」というのが基本でしょう。為政者とすると「労働基準法」で設定される条件を満たした場合には「一家が最低限の文化的生活が出来る対価報酬を支払う社会体制の整備」と「日本のどこに住んでいても、最低限の文化的生活がおくれる社会環境の整備」をする義務があると考えます。
一般的生活者は「その対価報酬のやり繰り(振り分けは個人の裁量)」で、自分の未来を設計する事になります。国家が面倒を見るのは「対価報酬の保証と環境保証」という部分でしょう。後は、例えば「国民が博打ですってしまった」のは自己責任ですから、救済は余裕があれば、と言う部分にもなりますが、犯罪で失われた部分については「犯罪を発生させた政策責任」という部分において、財産補償義務などはあると考えられます。
つまり、社会に対する貢献が一定ラインに達している国民には「国民が幸福と感じる生活を実現できる生活設計を安心して行う事ことが可能な社会(実現するかは本人の努力と精進次第)」が、目指すべき方向(実現できるできないは別にして、方向性としては)ではないかとKは考えています。
これは、勧善懲悪とか人種間異文化とはを乗り越えて「共通の概念」として、設定できるのではないでしょうか?
>【私見ですが、コンパクトにまとめますと『主観と客観の折り合いをつけることができる寛容さを備えつつ(普遍的価値観の見極め)、恣意的な圧力(ある明確な目的に沿った価値観)に対し屈せず【多数派形成を図る】』ことが『住み心地のいい世界の現出に繋がる』と考えています。】
ここは、多数派形成を図るため戦略的イメージであり、イメージによって多数派形成を図る定義という部分ですね。
で、イメージとしては何となく分かるのですが、Kの鰯頭では難しすぎて正確には理解しきれないくらいコンパクト過ぎますね〜
ただ、少し、哲学的な思考に振れているという部分があると感じます。
では、では