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(回答先: Re: 日本の学校ではなぜお菓子がもらえないのか。 投稿者 東京音頭 日時 2006 年 1 月 27 日 00:10:56)
東京音頭さん、レスにすぐに気づかなかったうえに、返答をまとめるのに
いくばくかの時間がかかってしまってもうしわけありませんでした。
まづ、東京音頭さんからの質問に答えます。
自己レスより
>ただし、前提条件があって、日本以外の国の教育や社会のシステムを
>肯定している場合が多いのではないでしょうか?
上記ですが、わたしは東京音頭さんの最後の文章の感嘆文を皮肉と解釈
いたしましたので、その根拠として上記を記述してみたのです。
一般論として解釈願いたいのですが、海外に暮らしている方の中に
日本の良さを島国特有の馴れ合いとか、海外の居住地にくらべてのんびり
しすぎている等否定的に解釈される方もおられるようで、中には日本
そのものをばっさりと切り捨てているかのような印象を与える方に時折
出会うことがあります。そこで、海外と日本とを比較した文章のときに
つい、筆者のスタンスが日本のシステムを肯定したうえで海外との相違点を
書いているのか、それとも、日本国内しか知らない者に対して現地の
はるかに優れている様を教え諭すように書いているのか、考えながら読み進む
ことが多いのです。東京音頭さんの場合、日本をひどく見下したような
印象は受けませんでしたが、古来より豪州よりは多面的ではない一本調子な
日本の教育指導姿勢を現実の社会のあらましを子ども達に直視させるよりは
むしろ理想を子ども達と一緒に追い求めすぎているように見えなくもないと
いう印象を受けましたので、最後の感嘆文は多少の皮肉がこめられているのかと
思ったのです。まちがった解釈のようで申し訳ありませんでした。
民主主義の産まれた国(英国)の連邦の一員である国(豪州等)だからでしょうか
生活のすみずみまでルールによって統治されているように傍目には映るせいか
善良な市民と自負している者たちは個々のルールをただなぞっているようにも
見えます。
そして既存のではまかないきれず、新規にルールをつくる必要が生じたとき、
徹底的に話し合うことで、コモンセンス(日本語では「常識」と翻訳されている
ようですが、自分ではむしろ「多数の総意」に近いのではと思っています)を形成し、また黙々とその総意に従うように見えます。
学校のご褒美に対しての質問ですが、金銭観の違いを感じさせられますが、違いに差がかなりあるように思えるので、どちらがよいか悪いかは控えさせてください。。
英語にmake moneyという表現がありますが、豪州の学校の例をみると、まさに自分でmakeするものなのだと実感させられます。対して日本の金は天下のまわりもの。自分でこさえるよりはむしろチャンスを待つという姿勢と言い換えられるでしょうか。子どもに対してもこづかいを与える、または駄賃。日本語に蓄財という言葉もありますが、ニュアンスはむしろもらった金銭の中から貯蓄するですね。けっして、make moneyのような無一文から財を産み出す行為とは日本の蓄財は異なるように思えます。金銭教育については今や日本国内でも少数ながらもモデル校はあるようです。そこではお店屋さんごっこ等を通じてお金の流通が実生活とどうリンクしているかを学びながら同時に豪州のようなmake moneyのさわりを体験する例をテレビで見たことはあります。見た限りでは
日本においては金銭についてあからさまに語るにはまだタブー視されがちなせいか、金銭教育は全国津々浦々には広がらないのではと思います。しかし、今後の日本の首相も
小泉政権が導入しようと試みる新自由主義(要は従来のように政府は国民の『すべて』を面倒みません。一部しか見るつもりはないので、不足分は自分で株なり外貨預金なり
起業するなり好きなように勝手に金儲けしてください)を継ぐつもりならば、日本でも金銭教育は浸透するかもしれません。本来は家庭内でおこなうものと思いますがするならば、頭のやわらかい子ども達がターゲットに選ばれることと思います。
豪州の例だとWorks make money. という思想が背景にあるのかと思いますが、そのworksも単なるルーチンワークではなく、ハイスクールの例のように子ども一人ひとりが持つ才能を開花させようと努力した結果への報奨金的な色合いが強いのかなと思いました。スポーツ選手でも報奨金によってモチベーションを保てるという意見もあるようですが、金に呑まれることもあるわけで、豪州でもそのリスクについてどの辺まで学校関係者は指導しているかは気になります。幸か不幸か商才にめぐまれセレブの仲間入りを果たしたものがノーブレス・オブレージの名の下に寄付行為をさかんにおこなうというのも、金に呑みこまれないようにするため、彼らが熟慮した末のルール(コモンセンス)なのかもしれません。
豪州の教員がかつての日本のように聖職とみなされているのか、わかりませんが、おもいやりや他人へのやさしさを諭すといった行為が教員の執務内容に明文化されていないならば、それはどこが代行しているのでしょうか?家庭においてでしょうか?教会でしょうか?日本では教育のなかに知育・徳育・体育が含まれているようで、それゆえ、おもいやることを学校教育でも道徳の時間などを利用して教えているようですが、今や多民族国家となった豪州ですから道徳といっても基軸をどこに置くか、白豪主義のなごりでキリスト教に基づく道徳でいいのか、学校教育からは道徳という科目そのものをいっそ排除してしまったのか、その辺の事情は東京音頭さんの目にはどう映りますか。