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(回答先: 仏性=conatusの本性=空(虚)=慣性 投稿者 如往 日時 2006 年 1 月 09 日 11:52:49)
如往さん、こんにちわ。
仏教や西洋哲学についてのお考えを拝読しながら、近い場所(と言っても、勉強量において遥か上)に居られる方だなとの思いを強くしております。そうした気安さのついでに、「空虚」についていま少し述べさせて頂きます。
“………辛うじて我々に可能なのは、如何に「仏性=conatusの本性=空(虚)=慣性(細胞分裂をモメントにした)」を受け止めるべきかに関して探究していくことではないでしょうか。それが、釈尊の問題意識の中核を成していたのではないかと想い、月並みな結論ですが、現世の中(うち)に涅槃と思しきものを顕在化していくことが我々衆性に課せられた勤行ではないかと考えています。………”
以上のような如往さんの“…勤行…”に近付けるかどうか分かりませんが。
さて、仏性の本体を空虚だとしても、空虚は空虚の侭おさまることはありません。空虚を埋める何かが無くては済みません。そこに身体の意味があるのではないかと思います。そして、空虚が単なる存在(非存在)ではあり得ないように、身体もまた、単なる存在ではないと。
目に見える身体のみが身体ではなく、目に見えない身体が在る。それを霊と言うのかも知れない。そして霊は、身体の様にもあり、身体による限界を越えたものでもある。
言うまでもなく、人間の生は知的活動に止まるものではなく、何よりも身体と共にあります。身体を捉えなおすことこそ、未来を開く鍵なのでは。と言っても、ヨガや瞑想に向おうというのではありません。一から(いやゼロから)捉え直すのです。