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(回答先: 如往さんの投稿「同心円の中心部を成す仏性」(後半部分)に寄せて 投稿者 張良 日時 2006 年 1 月 06 日 16:52:26)
張良さん、こんにちは、本年もよろしくお願い申し上げます。
当方のレスが逐次的ではないことに少なからずご不満もあろうかと想われますが、これまでのレスポンスから張良さんが十分咀嚼されていると勝手に判断して進めてゆきますので、今後ともご理解を賜りたく存じます。
そもそもは“改革”に資するべき何らかの指導理念の探究が互いの問題意識の中心にあったような気がしていますが、果てさて、想いの外、深部に至ることになってしまったと実感しています。
>ところで、カントが認識の対象について考えたことを、デカルトは認識そのものに付いて考えたのではないでしょうか。認識は常に対象を持っていますが、認識自身を対象とする認識において、様々の認識の背後にいるはずの認識の主体とは何者なのか。いや、そんな者が本当に存在しているのか。物自体と同様に、認識自体は認識の外に在ります。しかし、物自体が認識の対象であるのに対して、認識自体は、認識の対象でもあり認識そのものでもあります。認識そのものが認識の外に在るとはどういう事なのでしょう。
我々人間が近代知(世界の再認識)へと向かうに際しての「意識(思惟過程)対象化」という問題について一定の解答をもたらしたところにカントやデカルトの功績があったと考えています。さらに、極々大雑把に申し上げれば、カントは判断過程におけるdimension(次元)について、デカルトは思考過程におけるposit(措定)の在り方について考察したことにそれぞれの功績があったと謂ってもよいでしょう。
>デカルト的主体はあくまでも現象界に属しています。現象の内に働き続けています。と同時に、常に現象界を踏み出して行きます。現象の外部へと世界を拡大します。老荘の道は、現象界の外部と内部を繋いでいます。そして涅槃は、現象の外部にあることです。これらを仏性の三相と考えられないでしょうか。思考は生成する働きであり、道は栄枯盛衰の理、涅槃は絶対の真実です。そして、三相の本体は我々の認識の外です。仮に、空虚としておきます。
前のレスにも記しましたが、カントやデカルトが究極的には認識の対象としたこと、すなわち「様々の認識の背後にいるはずの認識の主体」について現在の私は論考を停止しています。ただし、釈尊自身は我々が「三相」と共にあることを説いていたのではないかと想っています。曼荼羅も、両界曼荼羅がメビウスの輪のような位置関係にあること等も、それ等が釈尊以降の人々(弟子や信者)の想像力の賜物であっても、物それ自体を認識するための対象としては余りにも心許ないものに感じられるのです。
しかし、辛うじて我々に可能なのは、如何に「仏性=conatusの本性=空(虚)=慣性(細胞分裂をモメントにした)」を受け止めるべきかに関して探究していくことではないでしょうか。それが、釈尊の問題意識の中核を成していたのではないかと想い、月並みな結論ですが、現世の中(うち)に涅槃と思しきものを顕在化していくことが我々衆性に課せられた勤行ではないかと考えています。
また、会いましょう。