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如往さんへ。遅くなりましたが、「同心円の中心部を成す仏性」http://asyura2.com/0510/dispute22/msg/460.html(前半部分)へのレスです。
先ず、如往さんの文章からの引用です。
“………「小泉の「聖域なき構造改革」は、日本社会を限りなくアメリカ社会に近づけるものだと思っています。」は、アメリカ社会の構造に組み込もうとしているとの認識と理解してよろしいのでしょうか。………”(以上、引用)
直接的に組み込まれる(例えば、州になる)か否かは別として、社会のあり方がアメリカのような移民社会特有の早い者勝ち・強い者勝ちに近づくのではないかということです。こうした社会は人々を競争へと駆り立てます。良く言えばアメリカンドリームですが、その実、コネとパワーを駆使したギャンブルです。
また、こうした事とは別に、日米同盟という名の二国間関係は、世界政府とそれに従順な地方自治政府とでも言うべきものです。アメリカの必要と利益に奉仕する日本政府は、日本社会に分断と対立を作り出し、社会の解体をもたらさずにはいないでしょう。それを個人の解放として肯定的に捉えることも可能ですが、所有する金銭の多寡によって計測される解放であることは間違いありません。
“………それでは、naked(裸に)されたJapanにとって、「アメリカが日本人の感性を覚醒させてくれる」としたら、張良さんは感性がどのようなものになると想定されるのでしょうか。また、そうした感性は構成力を伴うような、つまり悟性へと導かれるのでしょうか。………”
希望的観測に過ぎないと言われるでしょうが、想定とはこうです。社会が解体し、寄る辺ない孤立した一人として巷に放り出された時、人々は気付くのではないか。金銭は其の所有者を自立させたのではなく、人々から切り離しただけだったのだ。自立とは、社会を作り出す紐帯を自らの中に見出すことなのだと。
“………“…共同幻想…”社会は共同幻想であるが故に崩壊するものではなくて、それから目覚めるべき対象と云ってよいものでしょう。あるいは仮に設営されたものならば検証され総括されなければなりませんが、遺憾ながら日本人自ら総括することができませんでした。………”
それが幻想と言わざるを得ないものだとすれば、現実と呼ぶべきものが他に在るのでしょう。では、戦後日本の現実とは何だったのでしょうか。食べる事、生活する事、日常に専念する事、ではなかったでしょうか。そこでは他人への配慮は後回しにならざるを得ませんでした。自分と自分の家族が今日を如何にして過ごすかが最優先課題でした。
とは言え、人間はやはり人間です。自分の事ばかりでは体裁が悪いのです。嘘でも社会への配慮が必要です。また、其の事は実利にも繋がりました。取りあえずの建前となるものが求められたのです。其の建前を本気で信じれば、そこに幻想が生まれます。何故本気で信じてしまったのか?それは自分が余りにも惨めだったからでしょう。
こうした戦後を生きてきた日本人にとって、幻想から目覚めるとは、自身の惨めさを直視することに他なりません。アメリカに食わしてもらってきたという惨めさです。検証と総括とは、今進行しつつある戦後社会の解体によって徐々に進められることと思います。
“………そうした認識と共に、繰り返しになりますが、「もちろんそれ以前には、例えば源泉徴収制度の廃止の意義や立憲主義の憲法の本義が権力の制限規範にあるとの認識に至らぬ日本人の自立意識の欠如をどうすべきかといった等の問題が山積しています」との現状認識から出発しなければならぬと確信しています。………”
仰る通りだと思います。しかし、今始まりつつある政治過程が、税金や憲法についての意識をそのままにはしておかないだろうし、そうした問題に直面することで初めて自立意識が形成されるのではないかと思います。
最後に、アメリカとの関係について付言すれば、世界史的視野の中で取り上げるべき大きな意義を持つ事柄であろうと思っています。其の件はまたの機会に。