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(回答先: Re: それでも、A naked Japaneseによる trial は地球世界にとって重要なことでしょう。←勿論です。 投稿者 張良 日時 2005 年 12 月 22 日 22:28:38)
張良さん、こんにちは、レスをありがとうございます。
>現時点での政治状況の認識に違いがあるのかも知れません。小泉の「聖域なき構造改革」は、日本社会を限りなくアメリカ社会に近づけるものだと思っています。Japanは、naked(裸に)されようとしているのです。アメリカが日本人の感性を覚醒させてくれるという訳です。
「小泉の「聖域なき構造改革」は、日本社会を限りなくアメリカ社会に近づけるものだと思っています。」は、アメリカ社会の構造に組み込もうとしているとの認識と理解してよろしいのでしょうか。それでは、naked(裸に)されたJapanにとって、「アメリカが日本人の感性を覚醒させてくれる」としたら、張良さんは感性がどのようなものになると想定されるのでしょうか。また、そうした感性は構成力を伴うような、つまり悟性へと導かれるのでしょうか。
対US関係については精神分析家の視点で論述した岸田秀著『日本がアメリカを赦す日』(2001)が示唆に富むものでしたが、三度にわたってレイプされた日本がどうしたらアメリカを赦すことができるのか、実は私には理解できませんでした。もしかするとレイプされたという自覚すらもなかったがために、こうも簡単にアメリカに擦り寄っていく日本の姿があるのではないかと想えて来るのです。究極のところ、過去アメリカ(権力者達)によって蹂躙されたネイティブ・アメリカン等の無辜なる人々がアメリカ史上における彼等の大罪を赦すことによってでしか、USの国民や特に権力者達は自身の真実の姿に気づくことはないだろうと想っています。
>日本に於ける平和の議論が往々にして内向きの一国平和主義的な傾向を持つとの指摘に対して、今、憲法9条の世界的意義が強調されつつあります。それは、歴史的・理念的なものであるのみならず、優れて軍事的・政治的なものでもあります。9条を巡る議論は世界的課題であるとの認識が求められつつあります。
>また、天皇制を含めて、“…共同幻想…”社会そのものが崩壊させられようとしているのが、現時点での日本の政治状況だという意味で、日本人は否応なく変革を迫られています。しかし、其の変革の方向については、日本人自身による選択も、いまだ可能だと思います。
“…共同幻想…”社会は共同幻想であるが故に崩壊するものではなくて、それから目覚めるべき対象と云ってよいものでしょう。あるいは仮に設営されたものならば検証され総括されなければなりませんが、遺憾ながら日本人自ら総括することができませんでした。そうした認識と共に、繰り返しになりますが、「もちろんそれ以前には、例えば源泉徴収制度の廃止の意義や立憲主義の憲法の本義が権力の制限規範にあるとの認識に至らぬ日本人の自立意識の欠如をどうすべきかといった等の問題が山積しています」との現状認識から出発しなければならぬと確信しています。
>私自身が“…天皇(制)の信奉者…”なのかどうか、実はまだ分かりません。それを確かめる為の問として「天皇」を考えようと思っています。
私は戦後の天皇の行幸を日の丸の小旗を打ち振って迎えた世代に属します。その延長線上のこととして中学校卒業の頃までは「皇室アルバム」の視聴者であり、「天皇」が国民の象徴とされる既定の事実(?)にそれほど違和感を覚えてはいませんでした。しかし、高校から大学にかけて政治史に興味を持ち、「天皇制」について考えていく中で吉本隆明著『共同幻想論』(1968)を手にして、その根拠に強く疑問を懐くようになりました。暫くして後、網野善彦等の著作から極中立的な知見を得て、さらに東北俘囚の処遇にたいする歴代天皇の背信行為の事実と未だにそれが償われていないことを知るに及んで、私的には「天皇」や「天皇制」が頼むにたらぬものとの結論に帰着したのです。
これから張良さんが「天皇」に関してどのように思索しあるいはどんな史料を渉猟してゆかれるのか知りませんが、是非稔りのある成果を得られますよう祈念しています。
>20世紀の西洋思想が、体系の相対化や脱構築という視角によって新たな領域を獲得したことの意義は充分評価しつつ、それでも尚、言説の背後に隠れていて決して姿を現すことの無い、実のところ存在していないはずの者を、やはり問わずには居られないのです。
「決して姿を現すことの無い」と存在を前提にしながら、「実のところ存在していないはずの者」と存在を否定されると、何を「問わずには居られない」のか対象が判然とせず、文意を量りかねています。
>仏教は、輪廻転生からの解脱を目指し、本能からの覚醒を説くものだと思っています。従って、覚醒する者は思考する者であり、さらに思考の螺旋から抜け出す者ではないかと。デカルト的思考が思考そのものの外に出る契機を持っているとすれば、ある意味、通じ合うのではというのが私の推測なのです。尚、仏性は、“…根源的かつ無限定なもの…”としての世界を観照する場所、つまり、世界の外にあると思うのですが。
私は仏性なるものが世界の辺縁に存するというよりは同心円の中心部を構成するものと考えて思考実験を繰り返していますが、絶対的存在としてそこに据えるべきか否か結論には達していません。けれども、人間をはじめとする地球に棲む生命体の活動の意味について考察するときに、仏性の概念は素朴なタオイズムを超える包括的な構成要件になるのではないかと想っています。
「般若心経を音に聞き、曼荼羅の世界に身をおくと、菩薩(如来)は我々が畏れ崇める存在ではなく、生命体の後背から生命そのもの(仏性)に遍照の光をあてている存在ではないかと感じられて来ます。」とは極々個人的な思索によるものです。けれども、冥界にまで及ぶ噺は議論板の趣旨とは遊離していくことが懸念されますので、ここまでに停めおきたいと存じます。
また、会いましょう。