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(回答先: それでも、A naked Japaneseによる trial は地球世界にとって重要なことでしょう。 投稿者 如往 日時 2005 年 12 月 20 日 07:22:47)
如往さんへ。議論の深まりに身の引き締まる想いです。
(引用)………さて、愚民党さんによる造語である「メディア身体」を私は拡大解釈して使用していますが、それには日本人を含むマルチテュード的存在をゴイム(選良以外の存在)として対置することが前提になっています。………(以上、引用)
私は、如往さんの「メディア身体」を勝手に解釈しています。勝手ついでに言えば、マルチテュード的存在たるゴイムの一人として、其の事を全面的に受け入れつつ、選民なる幻想に酔いしれる者達が文字通りの空虚に過ぎないことをもまた確信しています。「メディア身体」たる事を自覚的に引き受ける心性こそが仏性に通じるものだとの想いがあります。
………「メディア身体への転位」に向かう契機の一つにはA naked Japanese(純粋媒体としての日本人)の自覚があると想っています。けれども、遺憾ながら今の日本社会においてはその感性が研ぎ澄まされることも論理が鍛錬されることもないだろうと悲観的な見方をしています。………
現時点での政治状況の認識に違いがあるのかも知れません。小泉の「聖域なき構造改革」は、日本社会を限りなくアメリカ社会に近づけるものだと思っています。Japanは、naked(裸に)されようとしているのです。アメリカが日本人の感性を覚醒させてくれるという訳です。
………「在日米軍と自衛隊そして憲法9条をめぐる平和の議論」と「日本に暮らす人々は自己変革を迫られている」とがどう結びつくのか不明瞭に感じています。………
日本に於ける平和の議論が往々にして内向きの一国平和主義的な傾向を持つとの指摘に対して、今、憲法9条の世界的意義が強調されつつあります。それは、歴史的・理念的なものであるのみならず、優れて軍事的・政治的なものでもあります。9条を巡る議論は世界的課題であるとの認識が求められつつあります。
また、天皇制を含めて、“…共同幻想…”社会そのものが崩壊させられようとしているのが、現時点での日本の政治状況だという意味で、日本人は否応なく変革を迫られています。しかし、其の変革の方向については、日本人自身による選択も、いまだ可能だと思います。
………過去阿修羅に登場して来た天皇(制)の信奉者と思しき人達にたいし、こうした観点から幾度か対話を試みましたが、惜しむらくは明晰な回答に出合うことができませんでした。………
私自身が“…天皇(制)の信奉者…”なのかどうか、実はまだ分かりません。それを確かめる為の問として「天皇」を考えようと思っています。
………デカルト的自我はキリスト教的世界観における人間の思考の延長性(蓋然性)を考察する過程で構成されたもの、さらにヘーゲル哲学は歴史という時間的係数を組み込んで世界精神(自我の統体)が展開する世界とその自画像を透写しようとしたものとの見解は今では通説にまでなっています。(学部時代、デカルトの省察とヘーゲル哲学の裾野を踏破するのは通過儀礼に近いものでした。)………
20世紀の西洋思想が、体系の相対化や脱構築という視角によって新たな領域を獲得したことの意義は充分評価しつつ、それでも尚、言説の背後に隠れていて決して姿を現すことの無い、実のところ存在していないはずの者を、やはり問わずには居られないのです。
………仏教は、人間の本能としてconatus(自己保存力−スピノザ)の存在を認め、それが展開する、あるいは導かれる方向について展望したものではないでしょうか。かくて仏性がconatusの在り様を表象するものならば、仏性が展開する世界はデカルト的自我のそれよりも根源的かつ無限定なものではないかと思量します。………
仏教は、輪廻転生からの解脱を目指し、本能からの覚醒を説くものだと思っています。従って、覚醒する者は思考する者であり、さらに思考の螺旋から抜け出す者ではないかと。デカルト的思考が思考そのものの外に出る契機を持っているとすれば、ある意味、通じ合うのではというのが私の推測なのです。尚、仏性は、“…根源的かつ無限定なもの…”としての世界を観照する場所、つまり、世界の外にあると思うのですが。