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(回答先: あるいは、如往さんの仰る“…「メディア身体への転位」…”がそれなのかもしれませんが。 投稿者 張良 日時 2005 年 12 月 18 日 14:17:08)
張良さん、こんにちは。
さて、愚民党さんによる造語である「メディア身体」を私は拡大解釈して使用していますが、それには日本人を含むマルチテュード的存在をゴイム(選良以外の存在)として対置することが前提になっています。
>在日米軍と自衛隊そして憲法9条をめぐる平和の議論も、以上のような“…trial…”に裏打ちされたものでなければ本物にはなり得ないだろうと思います。にも拘わらず、と言うより、だからこそ、穏健な市民革命が必要ではないかと思います。どんな些細なものであれ革命は、革命に立ち上がる人々自身の変革無くして有り得ません。今、日本に暮らす人々は自己変革を迫られているものと思います。
人々が日々暮らす中で自己変革を遂げていくことの重要性を認めますが、張良さんが描かれる社会及び社会革命や、そこに至る政治革命が如何なるものかが今一つ詳らかではないために、「在日米軍と自衛隊そして憲法9条をめぐる平和の議論」と「日本に暮らす人々は自己変革を迫られている」とがどう結びつくのか不明瞭に感じています。
>社会的な意味を含む自己変革の契機としては、先ず、現実生活や政治の課題があると思いますが、より精神的・文化的な意味において自我や天皇に付いての議論は避けて通れないと思います。西欧的自我を日本人が自らのものにし得ていないというのは其のとおりでしょうが、日本社会に生活してきた者の自我は、日本社会の実態から生まれるものと思います。
必ずしも楽観的なものではありませんが、かかるアジェンダに関する見解は最初のレスの冒頭で述べましたので繰り返すことは避けますが、おそらくここに張良さんの日本(人?or国?)にたいする想いの中核部分が潜んでいるのではないかと推察しています。しかし、問題意識及び当事者意識のある日本の人達にとって、依拠すべきものを探求しつつ、嘗ての“共同幻想”を超えるべく試行していかねばならぬといった二重の課題を背負うことを覚悟しなければならぬことには変わりがないと考えています。
>西欧的自我が、キリスト教や神との対峙から生まれたとすれば、日本に於いては、天皇や八百万の神との対峙は避けられないのではないかと思います。天皇と言っても、明治憲法の天皇に限る訳でないのは勿論です。早い話、自我を教科書で学ぶことは出来ないと思います。“…退行を繰り返す愚をおかすこと…”にならない為にも、一度明確な意識化が必要と思います。
私はここ阿修羅で「意識(思惟過程)の対象化」というアジェンダに拘って投稿して来ました。それは我々が自我(意識の組成)の在り様を捉え直す当為であることに外なりません。そこで、過去阿修羅に登場して来た天皇(制)の信奉者と思しき人達にたいし、こうした観点から幾度か対話を試みましたが、惜しむらくは明晰な回答に出合うことができませんでした。
>ところで仏教では、実体としての我の存在はこれを否定しています。西欧的自我が内なる神に過ぎないのだとすれば、東洋に於いては既に2500年前、そうしたものを迷いと断じています。しかし、デカルト的自我については未だに議論が有り、決して内なる神の謂いではないと受け止めています。あるいは、仏性と言うに近いものかと考えたりもします。
デカルト的自我はキリスト教的世界観における人間の思考の延長性(蓋然性)を考察する過程で構成されたもの、さらにヘーゲル哲学は歴史という時間的係数を組み込んで世界精神(自我の統体)が展開する世界とその自画像を透写しようとしたものとの見解は今では通説にまでなっています。(学部時代、デカルトの省察とヘーゲル哲学の裾野を踏破するのは通過儀礼に近いものでした。)
仏教は、「大我=神」があるとするのはそれが人の迷いから発するものだとして我を否定しているかも知れません。しかし、もし今日的理解を加味することが許されるならば、仏教は、人間の本能としてconatus(自己保存力−スピノザ)の存在を認め、それが展開する、あるいは導かれる方向について展望したものではないでしょうか。かくて仏性がconatusの在り様を表象するものならば、仏性が展開する世界はデカルト的自我のそれよりも根源的かつ無限定なものではないかと思量します。
>日本社会に暮らす人々の仏性は、どのように自覚され理念化されるのか。いまだ西欧的自我に目覚め得ないとしても、そうした理念化の妨げにはなるまいというふうに思っています。自覚に至る道は、それぞれであるということです。あるいは、如往さんの仰る“…「メディア身体への転位」…”がそれなのかもしれませんが。
「メディア身体への転位」に向かう契機の一つにはA naked Japanese(純粋媒体としての日本人)の自覚があると想っています。けれども、遺憾ながら今の日本社会においてはその感性が研ぎ澄まされることも論理が鍛錬されることもないだろうと悲観的な見方をしています。それ故志ある人達にはどんどん世界に羽ばたいていって欲しいと望むのと同時に、何らかのmissionを授かったり纏ったりするのでなければやってはゆけないだろうとも思われるのです。
また、会いましょう。