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(回答先: 小さな政府 投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 1 月 03 日 17:57:37)
極端に簡単に言えば、公務員は日本を滅ぼす。
●日本を崩壊させた軍部と二重写しの大蔵官僚の傲慢
第2の敗戦といわれるいま、
コンドルたちが廃墟の日本をついばもうとしている。
流れに身をまかせるこの国の退潮を食い止め、
新しい未来への一歩を踏み出すには何をすればいいのか――。
『日本軍の小失敗の研究』の著者、
作家の三野正洋氏に聞く。
■日本を崩壊させた軍部と二重写しの大蔵官僚の傲慢
――オビに「異色の太平洋戦争文化人類学!」というコピーがありますが、ご著書の『日本軍の小失敗の研究』は実にユニークな視点で太平洋戦争の敗因の究明をしておられますね。非常に新鮮な気持で読ませていただきました。
それにしても、当時の日本の航空機工場には隣接する滑走路がなく、完成した戦闘機や爆撃機を分解して牛車に載せて運んでいたというあの話は、本当なんですか?
三野 ええ。作家の吉村昭さんなども小説の中で引用していますね。
――ショックを通りこして、惨憺たる思いがしますね(笑)。
三野 当時日本最大だった三菱航空機名古屋製作所からしてそうでした。技術の粋を集めて完成した飛行機をバラバラに分解して牛車に載せ、岐阜県の各務原飛行場まで約40キロのガタガタ道を運んでいたそうです。
なぜ牛車かといえば、牛は馬と比べておとなしく機体に振動を与えないからだというんですね。道路を整備してトラックで運ぶとか、工場の隣接地に滑走路をつくるとかすればいいのに結局、終戦まで牛車に頼っていたそうです。
――あまりに日本人的で、何か悲しい気持にさせられます。しかも大戦末期に牛が足りなくなり三菱の担当者が大量買い付けに乗り出したら、物価統制令違反で訴えられたというんでしょう。この矛盾。ムチャクチャな話です(笑)。
ちなみに、ご本には「この裁判の結果については読者の判断にお任せしたい」とありますが……。
三野 正解は有罪です。担当者6人のうち2人は実刑判決を受け、刑務所に入っています。日本の命運がかかっていたあの戦争のまっ最中に、きわめて厳格に8ヵ月間にわたって裁判が行われたわけです。日本の裁判制度のおもしろいところですが、アメリカだったら非常事態下にあるということで、訴えそのものが即座に却下されたでしょうね。
いずれにしても不可解なのは、昭和のはじめに航空機工場をつくるとき近くに滑走路が必要なことを誰一人気づかなかったのかという点です。
――ご本では、こうした独特の視点から日本軍の失敗を随所で明らかにしているわけですが、そもそもこの本を執筆しようと思われたきっかけというのは。
三野 私の父も参加したあの戦争については、これまで無数の出版物がその悲惨な状況や責任問題などを語ってきました。しかし、それらの多くは戦争は悲劇であり悪であるということを強調するだけで、戦争にいたった原因や敗因を冷静に究明、分析している本というのは皆無なんですね。
実際、今の日本の状況を見ると、ほとんどあの戦争から学んでいない。かつて日本の軍部は「軍事、戦争については専門家に任せておけ、素人に何がわかるか」という思い上がりともいえる態度で日本を崩壊に導いていったわけですが、最近の政治家や官僚もほとんど変わるところはありません。それを端的に示しているのが、今の大蔵官僚のスキャンダルだと思うんです。まあ、そんなことを考えながらメモをつくり始めたわけです。
――ご専門は空気力学で、大学で教鞭をとっておられるそうですが。
三野 ええ。実は私の父は開業医だったんですが、とにかく飛行機とか機械いじりが好きでしてね。昭和の初め頃ですが、自分でつくった模型飛行機で当時の文部大臣賞をもらったりしたこともあったそうです。最近よくいう“すり込み効果”というんでしょうか、同じなんですね、私も。
でも、その一方では歴史も好きなんです。現在の問題を考えるにしても、結局のところあの時代を避けて通るわけにはいかないでしょう。ただ今回の本では旧軍の方から、あれが違う、これが違うという手紙をいただきましてね、こっぴどく叱られました(笑)。
――軍隊を経験された方というともう70代前半から80代……。
三野 85歳の読者からも長文の手紙をいただきました。全部で200通ほどいただいたんですが、そのうちの4通は、こんなことも知らずによく本がかけると。一晩眠れませんでした(笑)。機関銃や大砲の名前ひとつとっても、実際に戦場を体験された方とは知識の幅が違いますからね。
それと、かなりの皆さんから、負けた方ばかりでなく、勝った方の小失敗についても書くべきではないかという要望がありましてね。そんな読者からの声を受けて、いま「連合軍の小失敗の研究」というテーマでペンを起こしかけたところです。
――本書では大局的な見地からではなく、あくまで小さな局面での日本軍の敗因の究明、分析をしておられるわけですね。当時の人口や生産力といった彼我の国力の差以外のところで、敗れるべくして敗れた原因は何なのかと。評論家の立花隆さんも『文藝春秋』誌上で紹介していましたが、その一つが日本陸軍の野砲に対する発想の貧困さですね。
三野 ええ。当時最新式といわれた日本の「96式15センチ加農砲」とアメリカの「M2155ミリ」(ロング・トム)には、砲弾の発射速度といった砲としての性能以外に大きな差があったわけです。何が違うのかというと96式は西南戦争の頃と同じ木製の車輪だったんですね。これに対しM2はゴムタイヤだった。だから96式の5倍のスピードで簡単に移動できたし、戦場に到着してからも2時間あれば第一弾を発射することができました。
ところが96式の場合、移動するには3つに分解しなければならず、そのうえでガラガラゴトゴトと牽引していき、現場に着いてからも組立、据付に5時間かかりました。砲の発射位置をわずか2、300メートル移動させるだけでもこの分解、組立、据付の作業が必要なんですね。情けないほどに前近代的な状態にあったわけです。
■自らの弱さを冷静にみつめて戦略をたてた明治のリーダーたち
――原因は一言でいえば用兵者、技術者の硬直した頭脳にあったと思うんですが、問題はそうした硬直性がどこから始まったかということですね。
三野 こういう例は他にもいろいろあり、典型的なのは無線電話機をめぐる話です。日本の陸海軍は太平洋戦争中、最後まで小型軽量で信頼性の高い無線電話機を量産することができなかったのですが、アメリカではすでに1930(昭和5)年に一般向けのものが市販されていたし、35年には警察の白バイなどにも導入されていました。
日本でも1944(昭和19)年頃からようやく戦闘機などに載せて使うようになったが故障が多く、ほとんど役に立たなかったそうです。撃墜王といわれた坂井三郎さんにもかつて取材しましたが、それはもう恥ずかしくなるような代物だったらしいですね。
――使い物にならず出撃する際は取り外していたそうですね。
三野 そうなんです。レーダーにも当初は無関心で戦争末期になってようやく実用化したわけですが、それに使った当時の真空管などは聞くも涙で、使う前に人肌で温めるということをやっている。
しかし、日本の軍人たちが初めから科学に関心がなかったわけではないんです。事実、20世紀のはじめ頃、日本海軍は無線電信の分野では世界でもっとも先進的でした。1902(明治35)年にイタリアのマルコニーによる無線電信の実用化が確認されると、海軍は世界に先駆けてその導入を決定し、要員の訓練を開始している。この英断が、それから3年後の日本海大海戦を勝利へと導くことになるわけです。
――ロシアのバルチック艦隊を発見した信濃丸が、第一報を当時最新の無線電信で伝えたわけですね。
三野 ええ。明治の人々はそれほどまでに新技術に深い関心を持ち、先進性、実行力にも富んでいました。それは単に無線電信に限ったことではなく、科学のあらゆる分野に及んでいた。そのバイタリティーを、なぜ昭和になるとなくしてしまうのかということですね。
――ご本のテーマにもつながっている部分だと思うんですが、それに関して司馬遼太郎さんが『歴史の中の日本』という著書の中で述べています。
つまり、日本人が夜郎自大の民族になるのは日露戦争の勝利によるものであり、さらにいえば戦争の科学的な解剖を怠り戦えば勝つという軍隊神話をつくりあげてしまったからであると。逆に日露戦争までの指導層にはそうした迷妄がなかったからこそ自分の弱さを冷静に見つめ、戦略や外交政略を樹立することができた。もし日露戦争の後、それを冷静に分析する国民的気分が存在していたら日本の歴史は変わっていたかもしれないともいっていますね。
三野 まったく、おっしゃる通りなんです。対ロシアの大勝利を日本軍の精神性や、東郷平八郎元帥は偉かったといった軍人の能力面ばかりで評価して、それ以外の軍事技術を学び、常に新しい戦術を考え、謙虚に勉強し続けた努力の過程はどこかにすっ飛ばしてしまった。結果として、それが頑迷で保守的で科学的態度を失った昭和の軍人をつくりあげてしまったわけです。日本人というのはどうも叙情的な感情が優先し、冷徹な究明や分析は苦手なんですね。
実際、戦後にしろ、先ほどもお話ししたように反戦、平和を声高に叫ぶだけで、なぜ戦争になったのかということさえ分析しようとしない。しかも中庸の精神とも無縁です。日露戦争までは欧米諸国に学べといって軍人たちもあれほど合理性に富み科学への関心も高かったのに、いったん勝つと今度は日本を神の国にしてしまい、負けたら負けたで卑屈なまでに国を貶めることに専念する。その振幅が余りにも大きすぎるんです。
■過去の失敗の詳細な分析こそが未来への一歩になる
――かつての日本軍が犯したいろいろな失敗をお聞きしていると、そこには日本人の民族としての資質が陰に陽に表れているように思えます。そうした資質をどう乗り越えていくかは、われわれ日本人に課せられた今後の大きなテーマなんでしょうね。
三野 そう思います。たとえば有為な人材を登用するということひとつとっても、日本人はうまくないんですね。それは現在の官庁の組織などでも同じだと思うし、とりわけ上下の差をつけたがったのがかつての日本軍なんです。たとえば戦艦長門の平時の乗組員は1400名なんですが、大便器の数は23個です。問題はその割合で、士官70名に対しては11個の便器が割り当てられているのに、1330名の下士官・兵には12個しかないんです。
――111人の人間に1個の大便器……非人間的というか、何か恐ろしさを感じますね(笑)。
三野 こうした現実を見過ごしていたのは海軍の上層部ですが、軍艦の設計に当たった造船官にも問題があったと思うんです。彼らはすべて東大か九大の造船科出身者で、海兵出の士官以上に優遇されていました。海軍に入り1年以内に中尉に任官するわけですから、まさに超エリートだった。だから軍艦としての性能、効率面の追求とともに、まず考えるのは艦長のための立派なトイレで、下士官や兵のトイレ事情など全く考えずに設計していたと思うんですね。
――独善的で自分の専門分野しか考えようとしない人間。今の時代にもそういう人物はいますね。
三野 これは今の大蔵省のキャリア組にも共通しています。20代の若さで地方の税務署長として赴任するのを見てもわかるように、彼らは若いときからそういう教育を受けている。かつての軍隊同様、ノンキャリアとの間には高い壁があるんですね。だから下の意見には耳を貸さないし、他人のことも考えようとしなくなる。国民の幸福より先に自分が属する組織の権益確保の方が重要になるんです。
実は最近、あるお役所の集まりでこの話をしたんですが、皆さん苦い顔をしていました(笑)。もちろん、こうした傾向というのは何も大蔵省だけのことではなく、今の自衛隊や一般社会の中にもいろんな形で存在していると思うんですが。
――私も以前、自衛隊の内部を垣間見る機会があったんですが、たしかに閉鎖された社会ゆえの独特の雰囲気を感じましたね。
三野 自衛隊を含め平時の軍人というのはとにかく勉強しません。公務員だから競争相手がいないし、経済的にも安定している。しかも階級社会でしょう。だから重要なことだと思っても、結局はいわないで済ましてしまう。つまり改善とか改良ということにきわめて鈍く、進歩という概念から最も離れたところにある集団なんです。それに比べると企業人というのはすごいですよ。生き残りをかけて絶えず戦っているわけですから。
――企業にとっての戦いというのは常に相対的なものですよね。とりわけ今は金融ビッグバンを初めとしてアングロアメリカの世界が日本の経済、社会に大きな影響を及ぼしてきています。そうした新たな環境のなかで企業経営者はどう戦っていくのか。
忘れてならないのは明治のリーダーたちの姿勢だと思うんです。実に謙虚に努力をつづけ、健気なほどに戦略思考を重ねている。しかも日露戦争を終結させるに当たっては当時、極東の名もない島国でありながら国際世論を喚起し味方につけているんですね。
三野 おっしゃる通りです。あらゆる角度からさまざまな方法で攻めていき、最後には自分の条件をよくする。明治の指導者たちは、まさにその外交感覚で生き延びたんですね。それから日本人はもうそろそろこのあたりで「日本だけは特別だ」という意識を捨て去るべきなんでしょうね。その第一歩は過去の失敗の詳細な分析にこそあると思うんです。