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(回答先: 日本人が目指すべき「穏健な市民革命」は、単なる反米ではなく、アメリカ民主主義を超える民主主義革命では? 投稿者 張良 日時 2005 年 12 月 15 日 23:19:15)
張良さん、こんにちは、毎度レスをありがとうございます。
>今日のグローバル化とは、正に地球世界がそのような“…field…”へと変化し始めたことなのだと思われます。日本という国の領域に囚われることは、徒に可能性を狭めるばかりでなく、実際には破綻しかもたらさないのではないかと思っています。肝心なのは、グローバル化の是非ではなく、グローバル化のあり方だと思っています。
USやその背後にある勢力が画策するグローバル化ではなく、ここにある人々が―断じて八紘一宇なんぞではあらぬ―独自のグローバル化の有り様を模索しつつ世界に飛翔していくとしたら、地球世界にとっても素晴らしい福音(済度)を齎すことになるかも知れません。果たして日本人がそうしたmissionを授かる存在として相応しいかどうかは定かではありませんが、それを確認・検証することくらいは試みてもよいのではと思うことはあります。
>また、“…pathosの生成…”が無かったとすれば、それは、民族としての日本人なるものもまた生成していないということになりはしないでしょうか。明治維新政府は、西欧諸国への対抗上、日本国家あるいは日本人の形成に意を尽くしました。しかし敗戦により、其の試みは道半ばで挫折したのだと思います。
吉本隆明の『共同幻想論』を引くまでもなく、近代から現代にかけてのpathosの生成をモメントにして日本人のrealityが如何ほど現出したのか寡聞にして知りません。そして、今日に至るまで敗戦について日本人(主に為政者群)が自ら総括していないことが正しく挫折の本質を表象していると考えています。
>「神の正体を知る」とは、必ずしも“…畏怖すべき対象(神)をもつこと…”とは思いません。近代精神は、内なる神として自我を見出したのだと思いますし、外なる神として既に日本人は天皇を持っていました。いずれにしろ私たちは今、其の正体を知らずには一歩も前進できないところまで来ているように感じます。
私は、「外なる神として既に日本人は天皇を持っていた」と断定することができぬが故に、日本人においても「近代精神は、内なる神として自我を見出した」とされることに大いに疑念を懐いています。もちろん、日本人が近代的自我を獲得し、そう自覚することは必要だと考えていますが、少なくとも天皇がそのメルクマールたり得たかと謂うと甚だ疑問であり、むしろ歴史上もそのような任を真っ当出来ぬまま今日に至っているのではないかと思っています。そして、私は神そのものの存在を疑っていますのでその正体を論ずることは自己矛盾に陥ることになりますので断念せざるを得ません。
ところで、前の稿で「この国土において自ら答えを出すためのtrialが不可能だとすると、世界の各地にfieldを求めその地で寄与していくような、謂うなればメディア身体への転位というような日本人の未来像もあるのかなと夢想しています。」と記したことと附帯して、“メディア身体への転位”とジャンプするときには何らかのmissionがあってしかるべきであろうとの想いがあります。とりわけ雄的存在には自らがメディア身体であることを自覚するためにも必要ではないでしょうか。何故なら、雌的存在であればメディア身体を自覚せずとも、最終的には“Matrixとしての自覚”に至る可能性を有しますが、雄的存在は本源たり得ぬ宿命にあるからです。けれども、神話的過去への退行状態から脱却できない雄的存在(日本の)には未来へと導くようなmissionは降りては来ないかも知れません。
また、会いましょう。