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(回答先: 「神の正体を知る」←これは絶対のキーワードかも知れませんね。 投稿者 張良 日時 2005 年 12 月 13 日 15:05:27)
張良さん、こんにちは、レスをありがとうございます。
畏怖すべき対象(神)をもつことが日本人にとって必要と謂えるかも知れません。しかし、その神は何時になったら顕現して来るのでしょうか。それとも、この先S学会やT教会やK史観等が奉じる「神」なるものを我々は受け容れざるを得ないのでしょうか。
隣国と国境を接していないことが幸いして、日本は他国による長期にわたるような過酷な統治を受けず、したがって民族離散の憂き目にも遭わずにいられた世界史上も稀有な国です。つまり、外力の理不尽さに耐え兼ねてそれを撥ね返そうと働くようなpathosの生成が日本人のethosの中に遺伝的(伝統として)に組み込まれることはなかったのです。つまり、フランスにおけるような市民革命の蠕動すら生まない背景にはこうした歴史的経緯があると想われます。
>“…他者から与えられた答え…”に忠実に努力することと、自ら答えを発見することの間には雲泥の差があることに気付くべきなのでしょう。
もちろん、その機会がなかったわけではありません。外力の大いさに即座に平伏してその吸収と応用に励んだ代表格が福沢諭吉であるのにたいし、西欧的なものを何とか調理して自らの答えを見出そうと腐心したのが夏目漱石であったでしょう。しかし、その後の日露戦争や太平洋戦争(15年戦争)で多大な犠牲を払いながらも、我々日本人はその事実を自ら答えを出すべき契機とすることができませんでした。
>日本社会を指して1億総中流化と言われたのは、それほど昔のことではありません。急速に進む社会の2極化に、果たして日本人が耐えられるのかどうか。一度味わった心地良さを奪われた時、事大主義者の日本人と言えども立ち上がるのではないか?民主主義社会は、基本的に、平準化された社会階層の存在を必要としています。かつて棚ボタ式に実現した平準化された社会を、改めて意識的に追い求める時、市民革命の必要が生じるのではないでしょうか。
>言い換えれば、厳しい現実に直面することで否応無く意識の変化が生じるのではないかということです。
果たして社会システムの変更までを希求するようなマルチテュードとしての自覚が日本人に生まれ得るか、それは至難であろうと考えています。むしろ、2極化への推移とその影響が漸次的なものならば日本人の意識は物事を収束させる方行に向いてしまうのではないでしょうか。
>ついでに言えば、小泉という男は、そうしたところへ日本人を導いて行く役目を背負っているのかも知れません。どんな奴にも使い道はあるということでしょう。
我々を奈落の縁まで誘(いざな)うのが“小泉という男”の役目ということでしょうか。多くの日本人が縁に辿り着き奈落を覗くまで自分達がおかれている状況に気づかず、たとい気がついても最早引き返すことができないかも知れません。それこそが自ら答えを出して来なかったことにたいする払うべき付けと云えるのでしょう。要はそのことに日本人が如何に耐え得るかということですが、遺憾ながら現状では忍ぶための拠り処を我々が有しているとは断言できないと思っています。
さて、考えてみればこの国土に拘る所以は何もないのです。日本国ということに囚われることも縛られることなく、特に日本の女性が世界中に拡散して各地の人々の子孫を育んでいくとしたら、それも日本が世界に誇るべき平和日本のグローバル化であると考えています。フェミニスト陣営や国粋主義者達からも批難を受けるかも知れませんが、今日においても日本女性は教養があり協調性に富むと西欧人に受けとめられているように、世界的にみても非常にプレーンな日本女性の感覚は、世界の平準化と世界の平和へと導くメディアとしての役目を果たすのではないかと期待しています。
この国土において自ら答えを出すためのtrialが不可能だとすると、世界の各地にfieldを求めその地で寄与していくような、謂うなればメディア体への転位というような日本人の未来像もあるのかなと夢想しています。もちろん、その故郷が地球のユーラシア大陸の東に永らく存在するとしたら、それはそれで麗しいことだと思います。
また、会いましょう。