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(回答先: 反リフレ派(統制的インフレ信仰者)の前衛的論者の論文紹介 投稿者 姫 日時 2005 年 12 月 02 日 11:33:13)
リフレ派対反リフレ派の議論については、勉強不足ですので触れずにおきます。ここでは、松原氏の文章で興味を覚えた部分について少し述べてみます。
「…さてではスティグリッツは、なぜ金融緩和を無効とみなすのか。 銀行は、企業からの収益が悲観に思えたり、資産デフレで自己資本比率を達成できないときには貸し渋りを行い、金融が緩和されても安全資産である国債を買う、という。それが「新しい金融論」 からどう導かれるかというと、要するに現代の「金融」では、貨幣ではなく「信用」こそが中心になっているからだ。MMFやCMAなどの貯蓄性金融商品が現れ、企業も貸し出しを行い、クレジット・カードが普及しつつある現在、経済は貨幣経済ではなく信用経済と化しつつある、というのである。…」
上の文章の後半部にある、”…現代の「金融」では、貨幣ではなく「信用」こそが中心になっている…”“…経済は貨幣経済ではなく信用経済と化しつつある…”という部分は、貨幣が消滅し通貨が残ったという私の着想にどこか似ているのではないでしょうか。
先ず、「金融」の中心から貨幣が姿を消したという認識ではほぼ同じと言えそうです。違いは、「信用」と通貨にあります。松原氏に於いては、もちろん貨幣と通貨の区別は為されていません。従って、通貨が残ったという捉え方はあり得ないでしょう。氏が述べる「信用」とは、信用貨幣やその親類である銀行券(通貨)のような証書・書付のことではなく、まさしく「信用」、つまり様々の情報に基づく判断としてのそれです。
しかし、そうした「信用」というものは捉えどころの無いものです。所詮は人間の判断ですから不確かなものでしょうし、誤りが露呈した時の保証などは皆無です。
それに対し、通貨が残ったという意味は、信用が単なる個人的判断ではなく社会的な約束事として、帳簿上の数値、あるいは何らかの証書という形をとるということです。もちろん、その約束事が正しく履行されるという確たる保証があるわけではありませんが、取りあえずは約束として他人を拘束する訳です。
結局、「信用」と通貨では、確実性の度合いに違いがあるということです。
単なる「信用」と通貨の違いは以上のようなものと考えられます。こうした違いがあるにもかかわらず、貨幣が姿を消したという共通の認識から、貨幣経済ではなく信用経済と化しつつあることの結果として、金融緩和を無効と見なす議論を共有できると思います。
以上の認識を踏まえて、松原氏の以下の議論を支持したいと思います。
「…貨幣は無差別に流通するが、信用は個別に信用力が評価される。私が広く「信頼」と言ったのも、金融に即して言えばこの信用である。企業に対する銀行の信頼が損なわれ、そして銀行や企業が倒産するリスクを孕むと、貸し出し金利には信用力を反映してリスク・プレミアムが上乗せされるか、時には信用割り当てが行われる。貸し渋りはここから起きる、というのだ。とくにそれは、企業について情報を持っていない金融機関について顕著であるという。…」