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私が愛読している「週間ダイヤモンド」の書評や、「正論」などの原稿を書かれていたかたで、反リフレ派では代表的存在のようです。
私の持論1、資本主義における生産性とは、紙切れ(債券)の発行性であり、労働力は必要としない。
2、資産価格の緩やかな成長とは転売が引き起こすものであり、仕入れ原価が膨張するだけであり、利益率が累積しているわけでなく、個人所得を引き上げる要因にはならない。やはり、物価上昇成長は給与を引き上げざる負えない状況になり、資本主義における経済発展は物質的豊かな生活ではなく、資産を持つものと持たないものの差を広げ、株を保有する資本家、経営者の給与ばかりが異常高騰してしまう、序々に落差を広げる発展でしかない。
この、反資本家と言える大胆な思想を持つ私の思想と近いと解釈して、下記に論文を掲載させて頂きます。
松原隆一郎「思考の格闘技」
◇バカさゆえ・・・(2004年7月6日)
景気が回復している。これにかんする私の判断は中日新聞に書いたが、要するに
@フローについて:米中への輸出が総需要の拡大を牽引した、それに際しては昨年から今年年初にかけての三十兆円からのドル買い介入が有効だった
Aストックについて:昨年初夏来の株価上昇のせいで大銀行が自己資本比率をクリアし、さらに余裕を持てるようになり、不良債権処理を進めている。これについてはりそなへの公的資金投入が効を奏した
というものだ。私の年来の主張は、
・土地神話の崩壊以降、資産デフレが起きたために自己資本比率を維持できなくなった銀行が貸し剥がしを行っていた
・将来収益に不安があるとき、銀行は金融緩和の下では安全資産である貨幣や国債を保有しようとする。
・金利を下げようと、インフレにしようと、それで貸し出しが増えたりしない
・土地・労働・資本についての制度の急激な解体により不安が広まり、消費は「負け組」の間で落ち込んでおり、とくに消費性向が下がっている
ということだったので、フローの需要が輸出で増えたことや、実物投資の回復が金融緩和ではなく輸出財生産をきっかけとして生じたことなどと整合的だと思っている。土地神話も一種の(思考の)制度であるから、広く言えば制度が解体したために生じたのが今回の不況だったというわけだ。
ところで@Aという次第だから、当然、構造改革と景気回復は何の関係もない。ドル買い介入や公的資金投入は財政支出削減という構造改革の精神には反しているからだ。
だがそれにも増して傑作なのが、リフレ派の理屈が総崩れになってしまったことだ。実物投資が増えないのも、消費が回復しないのも、ともにデフレが原因だと 彼らは言っていたのだが、景気が回復しているここ数ヶ月、消費者物価指数はさらに下落している。デフレのままで景気が回復しちゃまずいでしょうが。
それでも言い訳しようとすれば、「デフレにもかかわらず景気がよくなるほど輸出が増えた」「自分たちがインフレになると騒いだかにインフレ期待が形成された」とでも言うしかなくなる。まあ、どんな愚論が出てくるのか、見物ではある。とはいえ所詮は適当な理屈を並べてエバりたいだけ連中、主張に思想を賭けて論じていただけではないだけに、いつのまにか「そんな話はありうべき論理として述べただけ、仮説を立てただけ」などと言って、リフレ騒動などなかったことにするに違いない。私としては、連中がまたしゃしゃり出てきたときに備えて、どれだけ騒いだかの証拠物件を残しておこうかな。
ところで三馬鹿やその取り巻きに代表されるリフレ派の連中が、自分たちだけが経済学を理解していると鼻息を荒げていたのも、今となっては懐かしいエピソードではある。『エコノミスト・ミシュラン』の冒頭を読み返すと、こんなことが書いてある。
・・・間違っても経済書を読んで経済学の勉強の代わりにしよう、などと思ってはいけません。やはりまずは定評ある優れた教科書にもとづいた勉強をしっかりとすべきです。そうした教科書としてはスティグリッツの『経済学』をお勧めいたします。・・・
だってさ。これにはびっくり。何が面白いって、先生方はスティグリッツの教科書をお勧めなんだが、当のスティグリッツは、専門書で先生方のリフレ論を批判しているの だから。ということは、教科書の次を読めてないってことですわな。景気がよくなった過程が自説と違っていたというのは、まあ大目にみてやってもよい。だが自説を批判しているとも知らずに、その著者の別の本を推薦するというとんちんかんは、普通のおツムでできることではない。
スティグリッツが昨年出版した本が今年東京大学出版会で訳出されているのだ。内藤純一他訳『新しい金融論−信用と情報の経済学−』である。この191ページを引用しよう。
われわれのモデルでは、景気後退時の金融政策の非有効性について、もうひとつの説明が可能である。もし銀行が貸し出しによる収益について悲観的であったり、必要自己資本を達成する上で問題が生じていたり・・すると、彼らは貸し出しよりも政府証券を保有しようとするだろう。つまり、金融緩和策がとられても貸し出し増加にはつながらず、単に長期国債か財務省短期証券の保有を増やすだけなのである。これは、まさしく1990年代の日本起きたことだと言われるだろう。
どうだろう、「金融緩和しても貸し出ししない」のだから、インフレ・ターゲットにしようと何だろうとリフレなど起きるはずがない、と言うのだ。すでにリフレ政策は、スティグリッツによって梯子をはずされていたの である。それも知らずにスティグリッツを読めとご推薦なさるのは、なかなか念の入った珍芸、いや自爆芸というしかない。
さてではスティグリッツは、なぜ金融緩和を無効とみなすのか。 銀行は、企業からの収益が悲観に思えたり、資産デフレで自己資本比率を達成できないときには貸し渋りを行い、金融が緩和されても安全資産である国債を買う、という。それが「新しい金融論」 からどう導かれるかというと、要するに現代の「金融」では、貨幣ではなく「信用」こそが中心になっているからだ。MMFやCMAなどの貯蓄性金融商品が現れ、企業も貸し出しを行い、クレジット・カードが普及しつつある現在、経済は貨幣経済ではなく信用経済と化しつつある、というのである。
貨幣は無差別に流通するが、信用は個別に信用力が評価される。私が広く「信頼」と言ったのも、金融に即して言えばこの信用である。企業に対する銀行の信頼が損なわれ、そして銀行や企業が倒産するリスクを孕むと、貸し出し金利には信用力を反映してリスク・プレミアムが上乗せされるか、時には信用割り当てが行われる。貸し渋りはここから起きる、というのだ。とくにそれは、企業について情報を持っていない金融機関について顕著であるという。ここには、「情報の非対称性」という年来の主張も援用されているのである。
リフレ派にしても貨幣経済における短期市場金利や長期国債金利について、名目値か実質値かなどと口から泡を飛ばして言い募ってきたのだが、そもそもそれは「古い金融論」であり、それでは不況を論じることができない、というの がスティグリッツの立場だ。
ちなみに1990年代以降の日本の経済と金融については、大蔵省で最前線にあって金融危機に対処してこられた本書の訳者である内藤氏が『戦略的金融システムの創造』(中央公論新社)でスティグリッツ理論を応用して論じておられる。私としては、資産デフレがファンダメンタルな背景を持つかに書かれる部分には少々疑問があるが、それでもここ十年で書かれた本の中で、唯一すっきりとした説明を与えてくれたと思う。それで、朝日の書評で紹介させていただくこととした。
いっときはリフレ派の肩を持っていた山形浩生君なんかは、朝日の書評委員会では同席して酒を飲んでいるが、最近では同じく委員である青木昌彦さんの著書を持ってきてサインをもらったりしている。青木さんは『ミシュラン』ではボロクソ書かれていたのだから、さすが機を見るに敏ではあります。まあ、ボロ船から逃げ出すのは、早いに越したことはない。バカさゆえにイケイケだった 連中がどう落とし前つけるのか、楽しみではありますな。
追記。そういえば先日の朝日書評で、山形君はこんなことを書いていた。ケインズの有名な文句の引用だ。
・・・ケインズは「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ」と述べたけど・・・
山形君は専門外のヒトだから知らないんだろうけど、ここでケインズが言っている「トンデモ経済学者」って、リフレ派のことなんだよね。リフレ派応援しているヒトがこんなこと引用していいのかしら?
さらに追記。
ケインズが批判しているのが「リフレ派」だという言い方がなぜかうまく理解されないみたいなので、注をつけると、ケインズが批判したのは、もちろん「古典派」である。今で言う新古典派である。その中の重要な人物にフィッシャーがいる。ケインズは、経済学説史に通じている人なら誰でも知っているように、フィッシャーに由来する貸し付け資金説や異時点間の資金配分論、貨幣数量説を批判して、流動性選好説や消費(貯蓄)関数論、有効需要説を打ち出した。
ケインズは「一般理論」に先立つ「貨幣論」では貨幣数量説を支持していたのだが、「一般理論」では完全にそれまでの立場を放棄して、貨幣数量説の批判を展開したのである。ケインズの死後、新古典派がIS=LMという枠組みでケインズの立場と貨幣数量説が両立するような解釈(総需要・総供給論)を出したが、それはケインズ自身とは関係ないことだし、IS=LMという枠組みで一般理論を書き直したヒックスも、のちにIS=LMはケインズ自身の主張の核心をはずしていた、と回顧している。つまり、ケインズが「一般理論」で批判したのが貨幣数量説であった。
そしてフィッシャーがリフレ派というのは、何も私がそう言っているのではなく、リフレ派の皆さんの主張なのである。
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◇「バカ(略)」につけるクスリ
『エコノミスト ミシュラン』なる本について下のように(2004.1.17、「バカの壁」について)書いたところ、出版社の担当編集者である落合美砂なるヒトからメールがきた。 無断で引用させていただく。
ありきたりの挨拶のあと、
「このたび、松原さんのホームページで拙書に関してご批判を頂きました。それを拝見し、当社のWEBページにて、著者の野口氏、田中氏、若田部氏による返答を掲載しました。
拙著が松原さんのご主張を読者に誤解させるような表現をしたことに関する謝罪と、しかし反論したい部分もあり、こうした運びになりました。
なお、以下のアドレスで、掲載しております。
http://www.ohtabooks.com/view/rensai_show.cgi?parent=2&index=0
ご多忙だとは思いますが、ご一読いただければ幸いです。
もし、反論、ご意見などがあれば、遠慮なくおっしゃってください。
一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします。」
だって。
すっごいねえ。
ずうずうしいというか、抜け目ないというか。「反論、ご意見などがあれば、遠慮なくおっしゃってください」だって?一見すると丁寧めかしたメールなんだが、ここで言ってることは、要するに「ウチの社にタダ原稿ちょうだい」ってことでしょ?この出版不況の折り、出版社が生き延びて行くには、編集さんもこれくらい面の皮が厚くないといかんの ですね。見上げたド根性ではある。
で、「一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします」なんだってさ。「読者の誤解を招きかねない表現」があったから、私信のメールを出して「お詫び」するから許してね、って言ってるわけだ、このヒト。
ここで、拙著について『エコノミスト ミシュラン』がやったことをおさらいしておこう。(以下、「『バカの壁』三人組」は、「バカ(略)」と略記することにする。)
「バカ(略)」は対談部で、「買いたいものがないという、需要飽和派の倒錯した論理」という見出しのもと、3ページにわたって吉川洋氏の説を批判する。その途中で、「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」(若田部)については「松原隆一郎もその立場」(野口)で、「処方箋が、消費不況だから何もしないほうがいい、社会不安だからどうもようもないというような無責任なことを言っている」(田中) という発言が出てくる。
私の『長期不況論』における立論は、急激にすぎる構造改革(制度破壊のこと)が90年代後半、特に97年あたりからの消費不況の原因となった、というものだ。したがって、80年代から存在している「需要が飽和しているという説」 については、もちろん否定している。つまり事実認識において拙著は、「需要飽和派」と対立しているのである。さらにいうと、吉川氏は、構造改革を通じて需要を喚起しよう、という立場である。対するに私は、構造改革が消費停滞を招いたという立場。ということは、対策の点で も吉川氏を批判したのが拙著ということになる。つまり、事実認識でも対策でも吉川説を批判するのが、拙著なのだ。
ちなみに私の吉川説批判は、「ずさんな需要創出論」という見出しでp65から3ページにわたっている。私の主張を吉川説と読み違えて「同じ立場」と断言するというのは、「バカ(略)」にしかできない至難の業であろう。
たとえて言うと、こんなことだ。私はソバ屋を営んでいるとしよう。フレンチなんて好きじゃないから、さっぱりしたやつがいい。どうせやるなら二八で小麦粉を混ぜるのでなく、100% ソバ粉だけで打つ「生粉打ち」の店 、それも産地にこだわってる店という設定がいいかな。そこにミシュラン執筆者の「バカ(略)」が調査にやってくるわけだ。ところがこのセンセイたち、地図が読めないもので、 てんで違う場所に行ってしまう。で、フレンチレストランを発見したとしましょう。 こちらも野菜なんかに気を配って、有機野菜の産地を明記したりしている店。ここで「バカ(略)」は、「なんか、こんな店じゃなかったっけ?」「まあいいんじゃない?編集さんだってテキトーだし」なんてんで、そのフレンチを食べてしまう。で、「ミシュラン」に書くわけだ。「 産地にこだわるべきだという説は意外に人気があって、松原隆一郎もその立場なんだが、ソバ屋でソースを使うというのは無責任」とかね。
他の店と取り違えてボロクソに批判されたら、当然ながらソバ屋は抗議するだろう。そしたら編集さんがメールを寄越すのだ。「一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします」なんてね。でも、元の本はそのまま。「バカ(略)」が太田出版のウェブで「謝罪」しているって 落合女史は言ってるけど、どこにも「ゴメン」とか書いてなかったぞ。「需要飽和派」だとか「倒錯した論理」だとか何の関係もない私もひとくくりにしといてね。まあ、売れればなんでもいいんだろう な。さすが落合サン、『完全自殺マニュアル』を編集して、自殺者続出でもどこ吹く風の敏腕編集者だけあるわな。 他人に迷惑かけて本を売るのはお手のものなわけだ。まあ今回は、被害妄想に走った著者とトラブらなければいいよね、ひとごとだけど。
本家の「ミシェラン」が、他店と取り違える大チョンボやらかしたら、どんな謝罪をするだろうか?私信やウェブでお茶を濁してすませるだろうか。この応対を見ても、ハナっからまともな評価本を作る気なんかなかったことがよーくわかる。どだいこの本は、体裁だけは論争本のような作りにしてはあるものの、その実はエラーイ経済学者が「経済学を知らないエコノミスト&読めば害になる『トンデモ』ビジネス書を一刀両断」(帯より)してみせることで、読者の溜飲を下げさせようという あさましい魂胆で作られているだけの代物なのだ。 それでいてエラーイ先生は、誰が誰かも識別できないので、赤の他人を取り違えて一刀両断。大ボケかましたり害をまき散らしたりしてるのは自分たちなのに、蛙の面にな んとかなのである。
「そうじゃない」、と「バカ(略)」や編集・落合は食い下がるのかもしれない。だがそれならば、本家のミシュランはこんな場合にどう謝罪するのか、真面目に想像してみよ。ちなみに、似た例がある。著名な美術評論家であるW氏が、読売新聞の文化面に寄稿した。その内容は大略、次のようなものであった。・・写真というのは、素晴らしい。右の写真を見よ。空からは米軍の戦闘機がおそってくる。地上では、ベトナム兵が逃げまどっている。戦争の悲惨と米国の傲慢ぶりはこの一枚で一目瞭然だ、と。ところがこの記事、W先生の大チョンボであった。編集部だって信じられなかっただろう。何しろその世界の大家が、 自分の写真論を賭して断言されたことであるから。そして数日後、「お詫び」広告が紙面を飾ったのであった。読売文化部は言う。「お詫び。先日の記事中、戦闘機はベトナムのもので、逃げまどっているのは米兵でした」、と。読売は、しっかりと紙面で「お詫び」したのだよ。さぞカッコ悪かっただろうけどね (ちなみにこの話、私の記憶にもとづいている。というのも大読売、この記事をウェブの過去ログから抹消しているのだ。さすがインフレ・ターゲットのパトロン、芸が細かいです)。
それとは対照的に、「バカ(略)」は、太田出版のウェブで、こんなことを言っている。「・・本書を批評していただいたことを感謝したい。われわれはかねてから、日本の経済論議の混迷の原因の一つは、各論者の見解がこれだけ鋭く対立していながら、明示的な論争が行われず、・・・・そしてそのことが、エコノミストたちの論議の信憑性に対する人々の根強い疑念の大きな原因となっていると考えてきた。」
どうやら、私とのやりとりを論争だと思わせたがっているらしい。だが、こんなものを論争と称したら、論争している人に申し訳ない。料理の評価にたとえれば、他の店に迷い込んじゃって私の店に ついて訳の分からないゴタク並べるセンセイたちと、論争なんかしようがないでしょ?そんな識字力もない連中に、論争以前の教育をするほど私はヒマではないのだ。センセイたち、論争がないから「エコノミストたちの論議の信憑性に対する人々の根強い疑念」が起きているなんて書いてるが、エコノミストの信頼が低下しているのは、そんな高尚な理由からじゃない。他店と間違って人の店の悪口を書き、平然としている「バカ(略)」が跋扈しているから、エコノミストが信頼を失ったのにすぎないのである。
ところで私は前回、「この本には、他にも学生のような人が長い文で私の経済論にかんして揶揄しているが、まあ私に指導義務があるわけでもなし、面倒なので放置しておく。若い身空で「バカの壁」 建てなくてもいいのにねぇ。」と書いた。ここで「学生のような」と私が形容したのは、飯田泰之というセンセイである。大学の「専任講師」とかの肩書きがついているから、 何かのセンセイをしているらしいことは私も認識している。 にもかかわらず、学生のレポートみたいなこと書くから、「学生みたい」と評したのである。私としては、まだ若い人であるようだし、自力で考えていただこうと、「バカの壁」 を建てなさるな、とのみご注意申し上げた。書評するときにはちゃんと本を読んでからにしなさいね、ということだ。「バカ(略)につけるクスリ」を差し上げたつもりであったのだ。
本来ならば、年輩者である「バカ(略)」や、サル回し役の落合某といった人々が、若手の書いた文をチェックすべきであろう。ところがここでまた「バカ(略)」が、鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいる。「(飯田氏は)・・数多くの学術論文を公表しているだけでなく、経済学の論理的思考に関する啓蒙書・・・の著者としても知られ、それらによって高い評価を得ている研究者である。そのような研究者に対して、「学生のような人」とか「私に指導義務があるわけでもなし」といった、明らかに個人を侮辱しようという意図を含んだ表現を軽はずみに用いることの重大さを、松原氏は十分に考えてみるべきであろう」なんだそうな。 ふーん。
では尋ねたい。まずはこの人が拙著を評した文の見出しにある、「社会学者による”誤解だらけの”経済学批判」というのは、いったい何なのだろか。センセイは、私に対して「著者が主流派経済学の功績についてどの程度の理解を得ているのかはわからない。もし、著者が本当に以上にふれたような主流派経済学の主要な結論を知らないのならば、虚心坦懐にミクロ経済学・マクロ経済学の中級テキストを読むことを薦めたい」と言っている。私は大学で経済学を教えているのであるが、こうした文を読んだ 学生は、「松原は中級のテキストも読んでいないらしい、経済学者は詐称で、社会学者にすぎないらしい」、と思うだろう。なにしろ「高い評価を得ている研究者」であるらしいから。これだけ「個人を侮辱しようという意図」まるだしの文も珍しいんじゃない?
もちろんそれでも、述べていることが的確ならば、私も批判に甘んじなければならないだろう。講義する資格を疑われても仕方ないところだ。ではこのセンセイは、拙著にかんしてどう理解しているのか。散漫な文なので「バカ(略)」の言い換えを借りると、この センセイが述べているのは「(松原が述べている貯蓄率上昇現象)は、異時点間の最適化を考慮に入れた新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論であって、「主流派経済学では説明できない現象」ではまったくない。事実、そうした現象に焦点を当てた研究は数多く存在する(たとえば、岡田敏裕・鎌田康一郎「低成長期待と消費者行動:Zeldes-Carroll理論によるわが国消費・貯蓄行動の分析」日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、2004年1月)」ということである。こうした批判を読めば、当然「エコノミスト ミシュラン」の読者は、私の本の内容を次のようなものだと考えるだろう。
1.松原は、需要不足による不況や、貯蓄率上昇現象は、主流派経済学では説明できない主張している。
2.松原は、需要不足による不況や、貯蓄率上昇現象にかんし、「異時点間の最適化を考慮に入れた新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論」について知らない。当然、そうした結論を導く論文の存在についても知らない。
1.から行こう。私は、内閣府の構造改革論が、市場が長期的に均衡することを前提に立てられていると理解している。長期的には価格が伸縮的であるから市場が均衡するというのは、主流派経済学の常識 でもある。とまあこう述べたのを見て、飯田センセイは、大変だ、松原は「新古典派には需要不足による不況の視点がない」と考えている、と早とちりしたらしい。あのねえ、私は、「新古典派 の理論では、長期には市場が均衡し、短期にも需要不足が生じうる」という話をしてるの。 p33からの3ベージなどで長々とそう書いてあるのに、分からないのかなあ。長期と短期って概念があるの、知らない?初級の教科書にもそう書いてあるから、ちゃんとお勉強して下さいね。
2.について。飯田センセイの文やそれにつられて「バカ(略)」が上記のような論文を引用するところから、読者は当然私がそういった議論や文献について知らないと思われるであろう。ところが驚くなかれ、私は拙著で貯蓄率上昇現象について述べた後、長々とこう書いているのである。
土居丈朗(慶応大学)氏の最近の実証研究(土居丈朗「貯蓄率関数に基づく予備的貯蓄仮説の検証」, 内閣府経済社会総合研究所 Discussion Paper No.1, 2001年3月)は、雇用リスクの増大により将来所得が不確実になったために予備的な貯蓄が増加したことを明らかにしている。リストラされるかもしれない、次の職が見つからないかもしれないという不安から、消費は抑制されたのである。 土居によれば、90年代において貯蓄率が上昇したことは、従来は実質可処分所得の期待成長率の分散が増大するという意味で所得リスクが増大し、勤労者の将来所得期待がより不確実になってきていることに伴う予備的貯蓄動機から説明されてきた。所得リスク増大と貯蓄率上昇との関係は、2回のオイルショック期を除いて、1976〜1998年においては有意な正の相関があるものの、1986年以降を標本期間とした場合には有意な正の相関が見られない。そこで、期待雇用率(有効求人倍率)の平均として定義する雇用リスクやその他の要因を貯蓄率に回帰すると、貯蓄率と雇用リスクの間には1986年以降の標本期間において有意の正の相関があると指摘している。つまり、90年代の貯蓄率上昇は失業の可能性が増加したという雇用リスクに伴う予備的貯蓄動機にもとづくものだというのだ。中高年層や低所得者の貯蓄率増大はこれによって説明できるだろう。人々が合理的でなくなったわけではない。合理的にお金の使い方を決めようにも、雇用そのものが不確実になったために、収入や支出がどれだけの水準になるかが不確定になってしまったのだ (p92)。
この理論は、生涯の所得を予算制約として各時点の消費を選択するということも意味する・・(p120)
恒常所得にかんしては、フリードマン以降の研究において将来所得が不確実である場合について拡張が行われ、そこで将来所得が不確実な人は予備的動機から貯蓄を行うことが示唆されている(たとえば石原 秀彦(2001)『ライフサイクル/恒常所得仮説と予備的貯蓄:理論的含意と実証上の問題点』ESRI Discussion Paper Series No.2)。(p.130)
ここで私は、需要不足による不況や貯蓄率上昇現象 を、土居氏の論文が恒常所得仮説や予備的貯蓄といった概念から説明し、その説明をさらに石原氏の論文が異時点間の選択という観点から補強していることを紹介しているのだ。つまり私の立論は、短期的 な需要不足は新古典派での理屈で説明できるという認識から始まっているのである。
ちなみに、石原論文につき、全7節のうち、該当箇所を紹介すると、次のようになる。「第1節は導入部として,恒常所得仮説が提唱された背景と,Friedman (1956)による恒常所得仮説の概略を紹介し,Hall (1978)以前と以後のアプローチの違いについて簡単に指摘している. 第2節では,Flavin (1981)に従って,恒常所得の適切な定義を,動学的な効用最大化を行う家計の,時間を通じた予算制約式に基づいて行う.この定義が,元々Hicks (1946)の議論に基づいていること,また,この定義を労働所得や利子率に不確実性がある場合に拡張する場合の注意点についても議論する.さらに,恒常所得仮説の下では,消費の時系列がランダム・ウォークに従うことも示される. (以下略)」
ところで、私の勤務する大学の教養学部には、「基礎演習」という授業があり、そこで私たち教官は、レポートや簡単な論文の書き方を講義している。で、最初に伝えるのは、次のようなことだ。
「まず、説明したい現象を述べなさい。次に、それを説明する既存の説を列挙しなさい。それから自説を展開しなさい。そののちに、自説が既存の説よりももっともらしい説明になっていることを論じなさい」。こんなこと、大学で教えるほどのことではない常識だ、と従来は考えられていたのだが、あまりにも学生の学力が落ちたため、教養学部で必修の演習科目となったのだ。十年ほど前のことである。 センセイはその単位をちゃんともらえたのかなあ。
センセイ方、分かりますか?ある現象について、説明する理屈が複数あるというのは、当たり前のことなのよ。そしてその説明の中でもっともらしいものが自説であることを論証するのが、論文というものなのだ。たとえば天体の運行については、地動説と同様に天動説でも大半説明がつくのです。そ うした中で地動説の優位を唱えようとするから、論文を書く意味があるのだ。そこで私は、
「需要不足や97年に生じた貯蓄率の上昇などという現象」を持ち出し、それを説明する既存の理屈として土居説+石原説という新古典派理論を挙げ、対する自説として、( 既述したのですべては述べないが)不安を制度崩壊によって異時点間の選択ができなくなった状態と解釈するものを掲げたのである。
ところがセンセイは、私が既存の(新古典派)説を批判しているのを見て動転し、既存の説では現象の正当化そのものができなくなると私が主張していると 思いこんでしまった。それは、文章の論理構成というものがどうあるべきなのかを理解していないから、そして私が何を書いているのかを読めていないからだ。もっと言うと、ご自分のよって立つ新古典派の理論が批判されたから、逆上したのであろう。早とちりするのはセンセイの勝手だが、私が「新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論」も知らない、なんて活字にするのは、自分の読解力 の貧困を棚に上げて、ずいぶんな物言いだよね。
せっかくだから、ふたたびたとえ話をしておこう。私は、ソバ屋を営んでいる。これまでは二八のソバが主流であったし、老舗では職人にそう打つよう指導している。実際、二八の方がツルツルしているし、それを ソバの醍醐味だと考えることにも一理はある。しかし私は、ソバの実の香りを味わうことこそがせいろソバの本質だとみなしたい。100%のソバ粉を使う方が、ソバの香りも立つし、ソバらしいと考えるからだ。 そこで私は、二八のソバと生粉打ちソバの双方をメニューに載せ、ただし後者に「お薦め」と記すことにした。そこにミシュランから、また若手のセンセイがやって くる。このセンセイは、エラソーに評論するわりには、老舗にしか行ったことがない。それで、 生粉打ちのソバを食べ、メニューには二八ソバも記されていることを見落として、こんな風に書くのだ。「パスタ屋による、誤解だらけのソバ批判」「松原のソバは、 なんかぼそぼそしている。パスタ屋の出身なのだろう、ツルツルしているというのがそばの醍醐味であることを知らない。虚心坦懐に、老舗ソバ屋で修行することを薦めたい」、と。つまり自分が不勉強で早とちりしているだけなのに、エラソーに私の店の営業妨害をするのである。
ここまで書けば、なぜ私がセンセイを「学生のような」と形容したかはお分かりいただけるだろう(私はここまでなかながと述べなくても、まともなヒトなら簡単に理解してもらえると考えていたが、それは「バカ(略)」を甘く見ていたからであった)。第一に、飯田センセイは、 学生が修得すべき論文作法について理解していない。第二に、センセイは私の本を「啓蒙書」と呼んでいるが、その啓蒙書 の内容も把握できていない。第三に、私に「中級テキスト」を読め、というのであるから、私のみならず私が紹介している土居氏や石原氏も、中級テキストを理解していないことになる。これはたんなる中傷を越え、 我々の職業に対する妨害である。自分が啓蒙書も読めもしないのを棚に上げて同業者の資格問題にかかわるようなことを軽々に書くのだから、どこかの大学で学生相手に講義したり、なにやら「論理的思考」の本(!)を書いたりしているとしても、この ヒトはしょせんは学生に毛が生えたか生えていないかといったお方なんだろうと忖度した次第なのである。
他にも、センセイ方は教科書というのも一個の制度にすぎないことすら分かっていないなど、笑わせてくれる論点が多々ある。「バカ(略)」 は、私の説に対して、「「制度を貨幣よりも信頼しうるものにすべき」といった、何か深い意味がありそうだが実は無内容な論理」と述べている。そりゃそうだろうな。この連中は、学説という制度を改革するには、ちゃんと既説を挙げ、自説を対置し、漸進的に改革すべきだということをまったく理解できていないのだから。そんな手続きを踏むことは、「バカ(略)」 の目には、「無内容」と見えているのである。一方、私は、新古典派の教科書という制度にせよ、「エコノミスト ミシュラン」のような内実がバレたら世間から信頼をなくすことになるので、こういった事態を改革すべきだと言っているのである。無内容なのは「バカ(略)」著の「エコノミスト ミシュラン」なのだが、繰り返しても詮無いので、もうやめることにしよう。
最後にもう一度言うが、私は決して論争しようなどとはしていない。論争するだけの識字力もない「バカ(略)」 と、本さえ売れれば誰が迷惑しようとお構いなしの編集者が牛耳っているのがエコノミスト業界であることを報告しているだけなのだ。そして「エコノミスト ミシュラン」が多く売れれば売れるほど、 その証拠が世に残ることを、読者には知らせておきたいのである。
そういえば私は、景気対策を提案しない無責任者だと批判されていたな。ならば最後に、提起しておこう。この不況には、経済政策の混乱が引き起こした面がある。そして政策の混乱は、エコノミストの学力が、論争できる水準に達していないことに由来している。学者の学力崩壊である。そこで、提案。政策提起者には、せめて啓蒙書を、小学生ばりに声を出して読ませましょう。 その啓蒙書としては、養老孟司著『バカの壁』と、参考文献『エコノミスト ミシュラン』をお薦めしましょう。なんちゃって。
嗚呼、やんぬるかな。「バカの壁」はかくも高く、険しいのである。
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◇「バカの壁」について(2004.1.17)
『エコノミスト ミシュラン』なる本がある。編集者が、お前のことが書かれている、と言って送ってくれたので、目を通した。田中・野口・若田部というリフレ派の連中による経済書 評価本だ。といっても自説に関係するものは仲間ぼめして、他はけなすということなので、評価でもなんでもない。たんに陣地を張るだけのしろものだ。
私についてはボロクソ書いてあるのだが、その内容が笑える。こんなこと印刷して、証拠残していいのかな〜とにんまりしてしまう。
「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」(若田部)については「松原隆一郎もその立場」(野口)で、「処方箋が、消費不況だから何もしないほうがいい、社会不安だからどうもようもないというような無責任なことを言っている」(田中)
のだそうだ。
噴飯ものである。
私の『長期不況論』の主張は、以下の通りである。
1.景気後退期には消費性向が上がり、回復期には下がるというのが戦後日本に限らず経済の一般的な傾向であるのに、なぜか97年から2000年、さらに2002年には逆のことが起きている。つまり、景気後退とともに消費性向が下がり、人々は貨幣保有を増や すという現象が目立っている。景気後退→消費性向下落→需給ギャップの拡大→不況の深刻化、というスパイラルだ。これを消費不況と呼びたい。
2.消費の落ち込みについては、80年代半ばから「選択的消費」が増えて欲しいものがなくなったという説があるが、それでは97年からの異変について説明がつかない。それゆえ、別の説明が必要になる。
3.消費者に対する調査によれば、消費を手控えているのは、雇用や所得、年金や増税について将来不安があるからだ。
4.私としては、この「将来不安」を、生涯所得にかんする計算ができなくなった状態と解釈したい。
5.消費関数論で一般に採用されているフリードマンの恒常所得仮説では、消費は恒常所得の関数である。そこで私は、消費不況を、恒常所得について計算できなくなったため生じた異常現象としてとらえたい。
6.所得は生産要素の対価として与えられるが、それは労働に対する賃金、土地に対する地代、資本に対する利子・利潤が源泉となっている。それらは完全な市場化が困難であるため、さまざまな制度によって守られてきた。労働については終身雇用制等、土地については容積率・都市計画法・建築基準法等、資本については護送船団方式等である。それらの制度が存在したせいで、人はおおよその生涯所得を算出できたつもりになっていた。
7.ところが構造改革は、こうした制度を一気に解体しようとしてきた。そのせいで、生涯所得が算出できなくなり、将来不安から貨幣需要が高まり、流動性の罠が生じて消費不況に陥った。
8.こうした急激な改革を行うなら、何もしない方がまだましだが、改革を行うとすれば漸進的にすべきだ。それはソ連がビッグバン方式で混乱したのに対して中国が漸進主義を採って成功したことにも符合している。そこで制度を、たんに撤廃するのではなく、資本・土地・雇用にかんして必要な形に再編すべきである。
ちなみに誰でもこう読める証拠に、最近出版された朝日選書『経済大論戦2』には、ほぼこの形で正確な要約がなされている。
さて、「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」があり、私はそれを上記のように批判するために『長期不況論』を書いた。それなのに、「松原隆一郎もその立場」というのだ。彼らの頭の中では、私の立場と、私が批判する立場がひっくりかえっている。
また、「何もしないほうがいい」、というのは、余計な構造改革に対して言っているのであり、必要な改革は粛々と行うべきだ、としている。「社会不安だからどうもようもない」というのは、インフレ・ターゲットなどの小細工ではどうしようもない、ということだ。私は、現在は制度が崩壊する中で貨幣だけが唯一信頼できるものとなっているから人々が貨幣を持とうとしていると考える。それゆえインフレを起こすのは唯一信頼している貨幣をも信頼できなくすることに等しく、自虐的政策である。政策であるからには、制度を貨幣よりも信頼しうるものにすべきだろう。私からすれば、「無責任なことを言っている」のはこの三先生である。
この三人組は、「リフレ政策に反対する連中は勉強不足もはなはだしい。」「ぼくたちは、リフレ派に反論している人たちの本をかなり読んで」いる、と鼻高々である。ところがどう読むかというと、私にかんしては正反対に理解しているわけだ。読んでいないと思いたいが、読んだというのだから、理解する力がないということなのだろう。『経済大論戦2』は三人がしばしば「世間知」とかで蔑視するジャーナリストの共著だが、こちらは正確に私の主張を理解している。ということは、この三人は、揃いも揃って知的には世間にも劣っていることになる。
もっとも、私はそうではないと思っておきたい。そうだとすれば、一つの解釈が成り立つ。養老孟司氏は『パカの壁』(新潮新書)で、「自分が知りたくないことについては、自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です」と述べている。この三人は、一生懸命勉強した教科書に書かれていないことは知りたくないのであろう。それで「バカの壁」を建てる。「バカの壁」を隔てると、私が言っていることが逆に読めてしまうのであろう。
三人してせっせと建てた「バカの壁」が、この本である。
(付記)
またこの本には、他にも学生のような人が長い文で私の経済論にかんして揶揄しているが、まあ私に指導義務があるわけでもなし、面倒なので放置しておく。若い身空で「バカの壁」 建てなくてもいいのにねぇ。
私自身は、私の説はたんなる仮説だと思っているので、自分がこれまで考えてきたことからいえばこれしかないと思ってはいるものの、それに反する仮説についても聞くべきところは聞き入れたいし、自説を修正し強化するのに役立てたいとも思っている。私見を決定的に否定するデータが出れば、その旨を明らかにして棄却することもあるだろう。そういった営みの蓄積が、読者の信頼を得る筋道だと思うからだ。
だがどうやら、エコノミストたちの討論を聞いていると、そうした言論のルールにはとんと無頓着で、自説を振りかざして大立ち回りする人が増えているように思える。そうした人たちは、大声で騒げば自説が正しいことが世の中に受け入れられると考えているようだが、私の感じるところ、すでに世間の目は小うるさいだけで成果もない政策論議には飽き ている。むしろかつては人目にさらされなかったエコノミストという人々が、一見賢そうに見えるわりにはあまりに怪しい性格で、それが丸見えなのにまったく気づいかないほど無邪気かつ鈍感であることを面白がり始めている。
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◇「ネット・ストーカー」について(2003.10.1)
池田信夫という人がいる。経済産業研究所で、IT関係の仕事をしているらしい。彼が私的なサイトで私について触れているとゼミ生が言うので、拙著「長期不況論」への「反書評」なる文章を見てみた。(http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/matsubara.html)
書評としては、お粗末の一言。なにしろ拙著に書いてあることの要約にしてからが、学生のレポートの水準にも達していない 。批判ならありがたく拝聴するが、拙著には関係ないことばかり書いてあてこするのだから、話にならない。この人は 世間の人が誰も読まない研究所の内輪の雑誌に難しげなテーマで文章を書いているようだが、誰にも分かる書評のような文章を書くととたんに馬脚をあらわして、 読んだり考えたりさらにその結果を文章化するという作業を平静に遂行できないことを、自分で暴露してしまっている。プロとして書評の仕事を頼む活字媒体は稀有らしいが、それも当然であろう。
それでも一応、敢えて本欄を覗いて下さっている方のために、どこがおかしいのか指摘しておく。
・「著者(松原)は、構造改革によって「制度が崩壊」していることが不安の原因だから、改革をやめて政府が「信頼を回復」すべきだという」
→私が主張しているのは、生産要素にかんする制度を「ビッグバン的に」改革するという構造改革が不安を引き起こしているのだから、「漸進的に」改革すべきだということ 。改革の内容についても土地・資本・労働に分けて論じている。私は「改革をやめて」などとは一言も言っていない。構造改革に反対する論者が述べることはすべて同じに読めてしまうらしいが、この人の読解力の構造改革こそが必要だ。
・「「お上」の力で国民を情緒的に「統合」しようとする主観主義は、佐伯啓思氏などとも共通する西部一派の特徴だが、問題は逆である。いま不安が広がっているのは、政府が信頼に値しないから ・・」
→私が述べているのは、BSE対策などで政府が信頼を失い、しかもその政府が失敗を棚に上げて構造改革などと言ってみたり、金融制度改革や牛肉買い上げなどを行っていることの滑稽さである。 つまり「お上」じたいが信頼をなくしているのに、その「お上」がさらに制度を解体しようとしていることを批判しているのである。「お上」の力で国民を統合しようというのに近い印象のことを佐伯氏や西部氏は述べているのかもしれないが、私は佐伯氏の著作への書評などではしばしばこの点を批判してきた。
・「必要なのは、信頼を回復することではなく、信頼できる制度を作り直すことである。」
→これなどは、逆に私が主張していることである。何を言っているのやら。だがしかし、現在進行している「構造改革」では、この人が主張するようには「信頼できる制度を作り直す」ことなど 決して行われていない。「規制緩和」「経済慣行の撤廃」に象徴されるごとく構造を破壊することに主眼があり、その結果現れた現在の金融庁などは、逆に役人が強権を持つよう「制度を作り直」したものだ からだ。「お上の焼け太り」 現象である。この人などは、さしずめ焼けて太った公務員の好例であろう。官僚を焼け太りさせる構造改革ではなく、まっとうな改革を行うべきなのだ。
さらに、この人は「まともな経済学のトレーニングを受けた」とか「ノーベル賞をもらった」とか言えば、何か信頼が得られると思っているらしい。そんなことを信じているのはPh.Dを取ったとかいう既得権益を持つ人たちだけで、市場(関係者)ではない。そういえば、「インフレにする」と日銀が宣言すれば市場が信じるから本当にインフレになる、とインフレ・ターゲット論者 も言っていたが、そんなことを信じているオメデタイ人は経済学者だけ である。この連中の魂胆は、国という「お上」が信用できなくなった隙に、竹中大臣を始めとする学者を「お上」に祭り上げ、自分たちで利権を得ようということだ。だが、国という「お上」も、経済学界という「お上」も、 世人は信じていないのである。
そもそもこの人の言う「まともな・・・トレーニング」は、受ければ書く文章の水準が学生以下まで下がるたぐいのものではないのか。
といった具合だから、私がうんざりするのもお分かりいただけるであろう。とはいえこの手のいじましい人はネットには掃いて捨てるほど生息しているのだから取り立てて触れる必要はないのに、と読者は思われるかもしれない。私もそう思って いたのだが、それでも敢えてここで取り上げようと思い直すことにした。それは、書評への反論を上述のごとく書くためはない (それはあまりにも簡単だと、我がゼミ生も言っていた)。こういった手合いがどのような背景からものを言っているのかについて注釈を付けておきたいのである。
この人は、サイトを御覧いただけばお分かりのように、佐伯氏や西部氏、そして私も含めて「西部一派」と彼が想定する人々を、異様な敵意と粘着性をもって攻撃している。それも本を読んでのまとも な批判ではなく、「学生時代から知っているがあのころはこうだった」という手の、証拠もない与太話や当てこすりばかりである。まったく、「卑しい」としかいいようのない文章の羅列 である。
この人にならって昔話をすれば、私は幾度かこの人を見かけたことがある。彼は学生時分に西部氏の追っかけのようなことをしていて、かまって欲しいのか、うるさくがなり立てては西部氏に一喝され 、しゅんとして逃げ出すといったことを幾度か繰り返していた。しばらく見かけなかったが、インターネットという利器を得て、またぞろ学生時分の恨みを晴らそうとしているらしい。 追っかけても受け入れられないので妄想にかられつつ「一派」にまで執拗なストーカー行為を及ぼすわけだ。まあ、こう した例を見せつけられると、 淋しい人にとって、ネット社会は憂さ晴らしの天国に違いないと 改めて感じる。それでいてこうした人物に限って「信頼できる制度」うんぬんと説教するのだから、たまらない。
ちなみにアマゾンの拙著紹介のページには、非固定のハンドルネームを名乗る人物がこの人にそっくりな文章で拙著をけなすレビューを投稿している。そこでも「西部一派」という言い方 がなされているが、こういう呼び方をする人を私はこの人の ほかには知らないし、とくに前著の景観論以降、西部氏主幹の『発言者』と異なる路線をたどっている私を「西部一派」に加える人も珍しい。
こういった人が官庁に巣くい、社会から信頼を奪う構造改革を主導しているのである。このことを、銘記しておきたい。
(後記)この人がここで私が書いたことを読んだらしい、とふたたび学生が知らせてくれた。サイトを覗くと、私が書いたことが本当かどうか、西部氏を交えて検証しよう、などと 付け加えている。変なこと言うねえ。ならば、佐伯啓思氏やその他、この人が勝手に思い出などを書き散らした人も呼んで検証しなけりゃならんでしょうに。自分の都合のいいことしか考えないんだな。
それと、私が「プロとして書評の仕事を頼む活字媒体は稀有」と書いたら、『ダイヤモンド』誌でやってるのを知らないらしい、と反論している。だからぁ、そんなこと、知ってて書いてるんだって。文意を読めない人ですねえ。
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http://homepage3.nifty.com/martialart/sikou.htm