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(回答先: 日本人についてのこんな見方 投稿者 東の空 日時 2005 年 11 月 09 日 07:35:23)
>議論をキチッと噛み合わせるように話を進めてはおりませんが、お互い何か発見できるものがあればいいと思いこういう進め方をしております。
小生など、そういった議論の進め方しかできません。(爆)
また、それが最高の議論の進め方だと思っています。
良い議論とは、お互いに“気づき”を得る為のものだと信じていますから。
東の空さんは、いつも小生にたくさんの”気づき”を与えてくれる、最高の相棒です。
>和尚ラジニーシの世界について知っていないと意味不明となるかもしれませんが、デラシネさんならある程度分かるでしょう。
申し訳ない、名前すら知りませんでした。(爆)
それで、ご投稿の内容から推測せざるをえないのですが、拝読していて、以下のコラムを思い出しました。
この中の一部は、別板で朝霧さんとの対話で使わせてもらいました。
日本人と西洋人との比較。
“西洋人”とひとくくりにしてしまうのも問題でしょうが、やはり日本人の育ち方の中に「その特異なるもの」を形作る秘密があるようです。
文化としての甘え たとえば、私はこういう問題を考えてみた。母親から少し離れたところで、幼児がよちよち歩いていて、転んだ。さぁどうするか、というのである。母親はどうするか、と、幼児はどうするか、とがある。
この問題を、私は多くの学生に質問した。母親の場合については、ほとんど例外なく、すぐ駆け寄って抱き起こす、と答えた。ところが、外国人留学生の答えは、それと違って、母親は、幼児が起きあがるのを見守っている、という答えが多かった。かつてアグネス・チャンさんとテレビ対談したとき、アグネスさんにもこの質問を持ち出した。アグネスさんは、香港で生まれ、カナダで学生生活を送り、その後、日本で生活している。私は、彼女の、いわば文化的国籍を知りたくて、聞いてみたのだった。アグネスさんは、即座に、当然のように、起きあがるのを待ちます、と答えた。これと反対に、おそらく、日本のお母さんたちは、ほとんどすべて、抱き起こしに駆け寄るだろう。土居の言う「甘え」の人間関係の出発点である。
ところで、もう一つ、幼児はどうするか、という私の立てた問題がある。幼児は、転んですぐに泣くか、あるいは、自分で起きあがろうとするか。
私はその答えをこう考えた。それは、しかるべき実験や観察に基づいたものではなくて、わずかな見聞と人の話などからの私の推測なのであるが、幼児は、転んだ後,まず、泣くのでも、起きあがろうとするのでもない。まず、母親の方を見るのだ。そして、母親と視線が合ってから、泣き出す。この時、もし母親が脇見などして、自分に気づいていなければ、自ら起きあがろうとするだろう。
そして、これは大事なところだけれど、母親もまた、こういう事情を心得ている、ということだ。もっとはっきり言えば、そう期待している。自分の幼い子が、転んだ後、もしさっさと自力で起きあがろうとしたなら、可愛げない、と思うだろう。自分の方をチラと見てから泣き出す、それで、可愛いと思って駆け寄るのだ。そして、そのように子供を育てていこうとする。子供もまた、まさに幼児の頃から、母親のこういう期待にこたえて甘えを身につける。こうして、甘えは、母と幼児の当事者双方からつくられていく。
すなわち、甘えとは、必要かつ十分に、互いに頼り、頼られる関係ではない。転んだ幼児が泣くのは、絶体絶命に行き詰まって、悲しいから泣くのではない。いわば甘えの演技が、ここに入っている。その演技の部分こそ、当人たちにとって、甘えを甘い人間関係にしている。
ここに、甘えにおける、ウラの関係が潜んでいる。オモテ向きは、転んで起きあがれない、困って泣く、だから助けに行く、という関係であるが、実はその裏にもう一つの関係が潜んでいる。すなわち、転んだ、その機会に甘える、その甘えを可愛いと受け取る、という関係である。
このもう一つの、ウラに潜む関係は、おそらく、幼児と母親双方には、明瞭に意識されていないだろう。しかし、その意識のウラで、双方に共有された関係がある。
こうして、日本人は、幼児の頃から、母親との間に、ウラの甘え関係を育てていく。これは、日本人の性格、人間関係の基本的な形として、子供がやがて母親を離れて大人になっても、続いていくだろう。生徒と教師、平社員と上司の間で、はたまた、友人同士、恋人同士、夫婦、などの間でも生き続けていく。
こういう「甘え」の人間関係は、土居健郎が説くように、日本特有なのだろうか。幼児が母親に甘えるのは、日本特有なのか。
心理学者、山田洋子は、甘えについての国際的な比較実験の結果を報告している。日本とイギリスとアメリカの大学生、それぞれ百数十人に、質問して絵を描いてもらった。質問は、「幼いときの、あなたとあなたのおかあさんの関係をイメージして絵に描いて下さい」というのだった。その結果の絵を、パターンとして分類し、「包む母と入れ子の私」と名付けられた同心円状の形に、まず注目した。これは、まさに「甘え」の形であろう。そして山田洋子は、このパターンが、とくに日本人学生に多いのではないか、という予測もたてていた。
その結果は、むしろ予測に反して、「包む母と入れ子の私」は。三つの国それぞれの学生たちで、ほとんど同じ割合で現れていた。また、「離れる母と私」のようなパターンについても、ほぼ同じような割合で現れていた、という。
おそらく、幼児期における母と子の甘えの関係は、広く人間に普遍的であろう。人間ばかりではない。一般に哺乳類の動物でも、同じような「甘え」が観察されている。それは、動物一般の成長にとって、ある時期までは必要な関係だからだ。
ところが、成長のある段階を過ぎると、甘えは母にとって、そして子にとっても障害になる。哺乳動物は、そのなわばりの中で、食料を探さなければならない。なわばりは限られているから、大きくなった子は邪魔である。それで、子別れの時がやってくる。親は子を、無慈悲に突き放す。子はいつまでも甘えようとする。その心理を、山田の実験結果が示している。しかし、子は結局、親から突き放され、自立していかなければならない。人間の場合では、フロイトのエディプス・コンプレックスの開始の時である。もっともフロイトの説では、食の必要よりも、性の要求を重視する。幼児にとって、母親は最初の恋人であり、父親は最初のライバル、というわけで、それで父親は母親と子との親密な愛の関係を抑圧すると説く。子供は、自分の愛の相手を、家族の外に出て、自分で探してこなければならない。しかし広く考えれば、子が親離れして自立していくのは、食と性の両方の必要にかなっているのだろう。およそ人間を含む哺乳動物一般にとって、成長のある段階における親離れ、子離れは、生物的自然にかなっているのだ。
日本人の母親と子における甘えの関係は、こういう普遍的、必然的な関係から見ると、やや特異である。生物的自然に反して、つくられてきた関係と言うべきではないか。それは、自然ではなく、「文化」であろう。
土居健郎は、西洋語では、甘えに相当する言葉がない、と繰り返し言っている。言葉がないから、西洋の研究者に注目されてこなかったのだ、と言う。ところが、『甘えの構造』は英語に翻訳されていて、”The Structure of Dependence” となっている。即ち、「甘え」は dependence に対応する。
ここに、甘えと dependence との文化の違いがある。土居健郎によると、「甘え」とは、甘い、おいしいに通ずる。いいことだ、という評価の言葉だと言う。これに対して、英語の dependence とは、端的に悪い意味の言葉である。dependence の反対の independence が、独立とか自立とかいう意味で、西洋人のもっとも好む言葉になっていることを考えれば分かる。
およそ、文化の違いとは、事実の違いであるよりも、同じような事実に対する、価値判断の違いであることが多いのではないか。
日本人の母と子における甘えの関係は、必要からは離れて、いいと評価されてつくられてきた人間関係である。単なる頼り、頼られる関係以上の、ある秘密な、ウラの心の働きが、それをつくり出してきたのだ。
母親と幼児の間の「甘え」関係は、日本文化の基本的な人間関係である、と考える。それは、日本的な「甘え」関係の基本である。以上述べたように、演技としての甘え、つくられた甘え、文化としての甘えである。
(『秘の思想』第三章、オモテ・ウラの文化 から)