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デラシネさんの「日本人の精神の根底には、空(くう)があるということでしょうね。」
http://asyura2.com/0510/dispute22/msg/349.html
へのレスですが、目立つようにここに投稿しました。
議論をキチッと噛み合わせるように話を進めてはおりませんが、お互い何か発見できるものがあればいいと思いこういう進め方をしております。
以下は和尚ラジニーシのサニヤシン(弟子)のセラピストであるマ・プレム・ビーナという女性の書かれた文章の抜粋です。
和尚ラジニーシの世界について知っていないと意味不明となるかもしれませんが、デラシネさんならある程度分かるでしょう。(私より分かるかも、私もそんなに分かってるわけではないので。。。)
内容は、なんだか、日本人を理想化しているような感じもするのですが、日本人の何気ない振る舞い方の中に実は大切なものがあるのではないかという思いはしております。
なお、入力が大変なので、勝手に部分的に抜粋しております。
OSHO Times Intenational
Volume32 Sep.1.1991
私の、日本の人びとの和尚体験
マ・プレム・ビーナ
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二、三年ほど前に和尚は、何人かのグループリーダーたちに、日本人のためのセラピー・グループを創るよう求めました。
私が理解したところによると、和尚はこう言っています、日本人と西洋人は違う、だから西洋人のために創られたグループは日本人には適さない、と。
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日本人とともにいることは、高い知性、とても醒めた意識、美的感覚の鋭い、とても繊細な、そして極めて調和のとれた子供たちとともにいる、ような感じがします。私が「子ども」ということばを使って表現するとき、この子どもということばに否定的な意味はありません。それは「子どものような」という意味であり、成熟した大人の知恵を持ちながらも、子どもの無垢で喜びにあふれた質を全て持っている、つまり、和尚が使う意味においての「子ども」なのです。
日本人は、その驚異的に発展した技術と産業にもかかわらず、毎日の生活において、子どものように無垢な精神、優しさ、喜び、そして、未知のものに対して開かれた感覚、楽しみをもつ心、そういった質を失っていませんでした。これがいっしょにいてとても素晴らしい人びとの集まりだ、と感じさせるのです。私は毎日、幸福感でいっぱいになって帰宅しました。この喜びは、一日に数えきれないほど起きた感動的な出来事が積み重なったものです。
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西洋人が日本人と付き合っていく上で出会うもっとも困難なことのひとつは、おそらく、中心に定まって動揺することのない日本人のその能力にどう対処していいのか分からない、ということにあるのだと思います。思い通りにならずに興奮し、しかも日本語を話せない西洋人を目の前に、彼らは腹立たしいほど冷静になってゆく!
中心から離れたものにとって、中心にしっかりすわった人と向き合うことほど欲求不満を駆り立てることはありません!そうなってしまったら頭は働かず、自分に気づき、自分自身の中心に戻らない限り、西洋人を待っているのは袋小路だけ!
何でも可能な限りの手段を使って、私たちが頭ではなく−西洋人は普通ここから機能してます−むしろ自分自身の中心を発見し、そこにとどまるのを助けることに和尚のほとんどの努力があるのです。
日本人は腹から機能しています。もちろん彼らはことばでもコミュニケートしますが、それでも、そのコミュニケーションはちがったレベルで起こります。鈍感でしかも殻に閉じ込もった全く不可解な存在という、このレッテルを西洋人が日本人に貼りつづけてきた理由はここにあります。私たちはただ単に、ことばとは違ったコミュニケーションをする彼らのこの方法が分からないだけなのです。私は、自分が中心に定まってさえいれば、例えことばがうまく通じなくても、コミュニケーションの流れはとてもスムーズにいくということを発見しました。しかし、中心を失うや否や、私は虚ろな壁で取り囲まれてしまいます!
そうなると、確かに鈍感で不可解な存在という彼らの姿が私の目に映ります。しかし、そういった姿を創り出しているのはこの私なのです。だから、醒めて、中心に定まり、彼らが私にしてくれるような優しい態度で彼らに接する限り、彼らはオープンで、流れのある、しかも気のいい暖かい人びとなのです。
私はさまざまな職業の人びとに出会いました。医者、歯科医、眼鏡屋、主婦、ビジネスマン、会社員、大学生、高校生、店員、駅長、車掌、そしてバスの運転手。私はこれらの人びとから同じように、中心に定まっているということ、そして他者に対する心遣いを感じました。
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西洋人がいると、慣れない彼らは落ちつきを失い、はにかんでしまいます。
しかし、彼らには、西洋人は自分たちに対して心遣いと、敬意と、気遣いでもって接してくれるのだという暗黙の信頼があるのです。なぜなら、いつもそのように彼らは人から扱われているからです。彼らには、劣等感という意識がほとんどないようです。ゆえに、劣等感が生み出す、異常なまでに人を蔑むという姿勢が彼らには存在しないのです。これはひとり西洋人にとって躍動感と活力を与える状況です。
キリスト教的な道徳、原理、そして条件付けが存在しない国に滞在する....、それはすばらしい体験です!私の目はもっと明確に、キリスト教的条件付けが人類にもたらした破壊的な作用を捕らえることができます−そのことを私たちに気づかせようとして、和尚はひじょうに多くの時間とエネルギーを費やしています−。そして、キリスト教的な行動パターンに対処する必要のない状況にいることは、何て深い安らぎなのでしょう!和尚の洞察の基本的な部分は、コミューンの生活こそ人類が生きる上で最も協力的でしかも能率的な方法だということです。日本にきて以来私は、大きなコミューンにあたかも住んでいるようにしばしば感じました。このコミューン的な印象が、日本人は個人性に欠け、群集心理に従って生きている、という批判の声を西洋人の中に起こしたのです。成人して以来、ほとんどの歳月を和尚のコミューンで過ごしてきた私にとって、これは真実とは思えません。それどころか反対に、これが日本の、強い、中心に定まった、暴力のない社会を形成している、もうひとつのとても肯定的な理由なのです。ここでは、他の全ての人と同じように、ひとりひとりが心遣いと尊敬を受けるに値する重要な存在として見なされているという感覚−世界中の私たちのコミューンに存在するフィーリング−があります。しかし、それは西洋人の、自分が生き残るためには他者をも踏みにじるという、西洋的な習慣とは正反対なのです。
私はイスラエルのキブツで5年間生活したユダヤ系スコットランド人の教師と話をして、彼のことばに興味を持ちました。彼は、日本の生活はまるでキブツでの生活−存在するもうひとつのコミューン的な社会−のようだ、と言いました。これは私の見解と全く一致します!
しかし、全てがこうだからと言って、日本人が捕らわれているさまざまな条件付けに対し、私は一分たりとも盲目ではありませんでした。そして明らかに、彼らのこうした条件付けこそ、和尚が一九八九年一一月一六日のプレス・リリースで述べている自発的、反逆的な精神を日本人が欠いている原因なのです。
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