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(回答先: Sirent Tearsさんのご意見は、いろんな側面を示唆されていますね。 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 11 月 05 日 11:04:12)
コメント有難うございます。
確か劇作家の寺山修司氏だったと思うのですが、40年程前に深夜のラジオ番組でDJをしていた頃、上記の発言をされたそうです。
家の中に閉じこもって知識を詰め込んでいても身につかない。現実に立ち向かい、実際の体験を通してこそ本当の知識・哲学が身につくんだ、というニュアンスだったそうですが、それに感激・賛同した若者達で家出する者が山ほどいたとか。
ニュースを聞いた寺山先生、慌ててまたラジオ番組で「君たち、家に戻りなさい」と呼びかけたそうです。団塊の世代で、「ラジオの深夜放送が俺の青春だった」と語る人達の間では有名な話だそうですが、今も昔も、同じ様な議論があったのかも知れませんね。
ただ、40年前の社会と較べて今の社会では、経済的に「1人で生きて行ける」事が大きな違いではないでしょうか。
また「楽屋オチ」のネタで申し訳ありませんが、オフクロによれば、
「そりゃ私達の頃だって、”別れたい”と言ってる人達は沢山いた。でも家を守るにも、子供達を守るにも、夫婦二人が協力しないと生きて行けなかった。だから、ケンカしながら我慢しながら、力を合わせてやってきたのさ。
そういう心配も苦労も知らない、イザとなればさっさと別れて、自分の事だけ考えて生きて行ける今の奥さん達は、幸せと言うか、ある意味贅沢だよ。
『自分は、生きていられて当たり前。生きてて当然の人間だ』と思える今の世の中がネ」
親の言葉とは言え、これも一つの真理だと思いますよ。
人は何故生きるのか。 ―生きる為です。
その為には、他人の命をを踏み台にするときもある。或いは、敵対する者同士が憎しみを押さえ込んで協力し合うときもある。
生き延びる力を身につける為に知識を集め、経験を積み、その知識と経験を元に自分を取り巻く世界を観察し、戦略を立て、判断し、実行する。
だからこそ人は「世界を知ろう」と言う意欲を持つのですが、今の人達はその方向が少しズレてるような気がするんですね。「生きていられて当たり前」と考えているために、生きる為に必要だからではなくブランド品の様に自分を飾る為に知識を身につけようとしていると言うべきか。
でも、そんな知識は何の役にも立たない。その知識がある為に却って本人を縛る事はあってもその人を守る事は出来ない。まぁ、本人が気付かない限り周囲が何を言っても無駄なんですけれどもね。
さて、「登板漢」について。
これは仏教で「板を担いでいる人」と言う意味です。この”板”とは、”その人が身に付けてきた知識や経験”の事ですね。
その人にとっては生きていく為の大切な財産ですが、それがある為に却って邪魔になり周りが見えなくなる。つまり「担いでいる板」です。
ではどうすれば良いか。
その板を肩から下ろして(=知識や経験を全て取っ払って)、対象を観察する。そして状況を確認したら、再び板を担いでまた歩き出すんです。
1歩、1歩。これもまた「生きる為」です。 では、また。