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(回答先: Kさんのレスは、デラシネさんの論と、位相というかレイヤというか対象認識のレベルでズレているようです。 投稿者 あっしら 日時 2005 年 11 月 05 日 03:37:05)
>あっしらさん どうもです。
デラシネさんは「Kに無い視点を有しており、Kの常識にはない発想を持っている人」だろうと思っています。まあ、「日本語の話せる外人(異邦人)の哲学者」みたいなものです。(表現には問題はあるかもしれません)
Kは実生活の改善に役に立たない「哲学」は軽視する傾向を持っています。これはKの昔からの主張の一つですが「高等数学」覚えるくらいなら「漫画でも読んでいたほうが生きる上では役に立つ」という考え方をしています。
「哲学」というのは「多数派形成」の手段にでも役に立たない限りは「自己満足」の一種にしかならず、暇つぶしには良いかもしれませんが、暇の無い者には「堂々巡りの時間浪費」でしかありません。
それは、ともかくとして「Kが見落としている(指摘されても気づかない)視点」があるのかもしれない。とは考えています。
思考者レベルという考え方をしますと「高次元のレベル」をする人が居る。という考え方ですが、まあ、あっしらさんが最有力です。
で、デラシネさんには「あっしらさんの指摘が見えている」という感じがするのです。
「カス=ゾンビ」は「何万回教えても理解しない奴」とデラシネさんは考えているようですし、あっしらさんは「考えようとしない奴(努力しない奴)」と指摘しています。
例えば「日本のアイデンティティ」とか「安楽死」などは結局は主観の押し合いになり時間の浪費になりやすい。安楽死を求める人には「それでは済まない」かもしれないが、安楽死を求める人でも「それは意識レベルの話で、意識以外の肉体の他の部分は生を求めている」と言う面もあり、神と言うものが存在するなら「死の門をくぐるのに必要と定められた儀式」なのかもしれないのですから、これはもう結論なんか出るわけがない。
【Kさんのレスは、デラシネさんの論と、位相というかレイヤというか対象認識のレベルでズレているようです。】
この意見は難解です。強いて理解しようとすれば「次元が違うので、何となく分かったように納得するべきでしょう」というような意味になってしまうでしょう。
Kはレスを付ける時、自分では「十分な論理を説明した上で付けているつもり」です。期待するのは「相手がそれを超えるレベルでの視点とか論理を示す事」です。それによっては、一段高い思考レベルが見えてくるわけです。それ相互作用によって双方に進化があるかもしれないわけです。ですから、「理由の示された反論」ならば、常に歓迎している訳です。
しかし、最近は「理由の示された反論」が少なく、欲求不満になっています。
その上で今回は乃依さんの「議論をするなら独善でない共通認識を」というテーマが大元で、各論は「ニートとか、マネーゲーマー(投資家と言う言葉が昨日急浮上しました)」を「悪と規定するのは独善ではないか?」という問題提起です。
で、Kは「共通認識」は入り口を狭めることの無い範囲で重要です。と認めた上で「社会的貢献義務という物を考えれば、義務を果たさない者は有害なので減らすべき」との意見を示した訳です。
「権力が個人の自由に介入するのは極力少ないほうが良い」という考え方はKも理解はします。
それは「権力は個人に対し圧倒的に優位な力を有していて、なおかつ、善とは限らない」のですから、個人サイドから見れば「当たり前」の考え方です。しかし、個人サイドも個人の集まりですから、自由に振りすぎれば「他の個人に被害が出る」のです。
例えば各座席2人掛け20席40人のバスに35人が乗ったとして「先に乗り込んだ人が全て2人掛けの席を占有してしまえば、15人が席には座れません」
この状況を改善するためには「マナーを守る社会意識の形成が必要」でしょう。で、5人が荷物を上部の網等に移動すれば、座れないのは10人まで減少します。
ここでバスのガイドさんが「荷物は棚等に移動し、座席を空けるようにお願いします。」とアナウンスします。これは意味合いでは「権力の介入」になるのかもしれませんが、あくまで依頼です。これによって5人が移動し、座れないのは5人に減少します。
後は方法論は2つに分かれます。「乗客全体の雰囲気で5人が座れるようになるか」「バスのガイドが半ば強制的指導にでるか」です。
問題は最終的に35人全員が座れたにしても、最後まで抵抗した者の5人は「他人より良い思いができる」と言う事です。ここを考えていけば「住みよい社会」に繋がります。
Kの視点は実生活を良くしようという方向で考える傾向があります。ですから、哲学的な意味合いで「それは悪とは言えない=そのようなイメージは差別に繋がるので考え方を改めるべきだ」というような意味での観念的レベルの思考とは「位相が違う」と言う意味ならば、正しいとも言えますが、今回のデラシネさんの意見は「現実への問題提起でなく本質論」と言う意味合いもあると思いますが「社会の風潮を変えるべき」という「自由主義への思考転換論」でもあるとおもいます。
そうでなければレベルが違うと言う事でしょうが、そうであるならばヒント(今までの全主張というような物ではなく具体的なリンクとか解説)がなければ分かりません。
もっとも、解説されれば分かるかどうかは分かりませんが・・・