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(回答先: それを言い出したら終わりでしょう。 投稿者 考察者K 日時 2005 年 11 月 04 日 22:47:55)
これまでの経緯もあってどう説明したら戸惑っていますが、デラシネさんの投稿を読み直しその意図するものを汲み取る思考努力をされてみたらどうでしょう。
そうすれば、あなたが持ち出した
● 究極の個人自由主義という意味合いでは「それが許されるなら、一種の理想論」でしょう。
● 確かに「自由で奔放な生き方」は「悪」ではないかもしれません。
といったレスの内容がトンチンカンであることが理解できるはずです。
デラシネさんの論は、社会を構成している自分自身や自分と関係を取り持つ他者をどのような存在として捉えるかについてのものであり、実際の生き方が自由・奔放であることを称揚するといったものではないはずです。
Kさんよりも道徳的で利他的で自己犠牲的な生き方をしている人も、デラシネさんの論に照らせば、「社会的要請とは無縁に、堂々と自由に生きていく権利」の現れとして見る(現われであって欲しい)と言うことになります。
(“社会的要請”という名の他者の「圧力」によってではなく、堂々と自由に生きていくかたちとして、道徳的で利他的で自己犠牲的な生き方を選択していると解釈すればわかりやすいかもしれません)
あなたがあれこれ書いている機能(役割)の問題は、社会的評価(価値)に囚われるのではなく個として「堂々と自由に生きていく権利」を相互に認め合う関係性のもとで解決されるべきものというのが、デラシネの論にも含意されていると思いますよ。
このような意味で、Kさんのレスは、デラシネさんの論と、位相というかレイヤというか対象認識のレベルでズレているように思われます。