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(回答先: 論説における前提条件の普遍妥当性を確認することの重要性 投稿者 乃依 日時 2005 年 11 月 04 日 00:33:41)
誤解なきよう言っておきますが、小生は乃依 さんのおっしゃることに間違いはないと思っています。
ただ同時に懸念もあり、それはニートであれマネーゲームに生きる者であれ、日本の中に「社会が彼らの価値を決める」という風潮というか意識があるうちは、「悪と断罪」から「指導」に変わっても、実質同じことではなかろうかと思うのです。
基本的に我々が認識しておかなければならないことは、「人は社会的要請とは無縁に、堂々と自由に生きていく権利がある」ということだと思います。
つまり、「社会的要請を満たしていない」生き方をしている人々に、暗黙のプレッシャーや罪悪感を与えるような社会風潮こそを改めなくてはならないということです。
このへんの概念は、日本人にはなかなか認識しづらい。
社会を構成する日本人の多くは個を確立していないから、彼らは自らの内にある「自己価値」に気づくこともなく、無意識的にも「社会的価値」という他律的な価値をその上位に置いてしまう。(自主性は自己価値に基づくもの)
そして、それを満たしていない自身の現状にいいしれぬ劣等感を抱き、いたずらに苦しんでしまう。
そんなことで個が苦しむ必要のない社会にしないと、何も変わらないのではないでしょうか。
このへんのところは、もっと言葉を費やさないと小生の本意をご理解いただけないかもしれませんが、ようは「悪」から「指導」に変わっても、それは単なる言葉の言い換えでしかないというのが現状ではないでしょうか。
いかが思われますか?