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(回答先: Re: 信仰的思考の上っ面の雑感ですね。 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 10 月 30 日 18:49:31)
>本当にそう思っているのであれば、すべての問題は実在はない、ということになるので
>問題はなさそうです。
>それとも、「自己」と「自己にまつわる諸問題」だけは実在だろうと思っているのですか?
「それは実在ではないの“だろうな”とは思っています」と、あえて書いています。
また、「自己」は実在だろうなとは思ってはおりますが、「自己にまつわる諸問題」は実在ではないのだろうなとは思っております。
また、「自己」はこの世界には存在していないのだろうなとも思っております。
>信仰的思考には近いが、たけ(tk)はヒトの言ったコトバなど信じない。
充分信じているように見受けられますけど、・・・、まっそうですか。
>希望というのは、全部を放り投げてしまったのちの《状況そのもの》の中に見いだすべ
>きモノ。もう少し正確に言うなら、無価値の《状況そのもの》とその状況の中にある「自
>己」との関係を知ることによって見いだすことができるモノ。
「希望」というのは、「涅槃」という意味において用いられているのですか?「涅槃」において以外の「希望」なら、それも苦であると認識しろということが釈迦の言っていることだと思っております。
つまりすべてが「苦」であると認識し、絶望した時、「涅槃」が現れるといったところでしょうか。(この表現の仕方も適切ではありませんが)
またそれ(涅槃)は、見出されるであろうモノであって、見出すべきモノでも、見出すことができるモノでもないと思っております。
で、「自己」のまわりに「物理的な世界や身体がある」と信じているあなたは、「希望」や「涅槃」を見出しているのですか?
>そのとおり。原因を見極めただけで「苦」が「楽」になるはずがない。原因を見極めた
>後に、その原因を除去する方法を考えて(滅)、実践すること(道)が必要です。
>しかし、原因を除去する方法を考えたり、実践することは、生活の時間において状況に
>直面している状態で行いうることではない。状況に直面している状態では、それが苦で
>あること(苦)とそれが苦の原因であること(集)を知ることによって、目の曇りを取
>り去り、後でそれを除去する方法を考えるために記憶しておくことが重要になる。
「楽」にするのではなく、「非苦」でしょ。中道でしょ。
また、釈迦は「人間の存在は苦である」としております。存在そのものが苦であるという根本苦を見極めろと言っているのではないでしょうか。「苦の原因は欲望にある」から、欲望の原因を見極め、なるべくそれを除去すればいいという問題でもないと理解しています。
なぜなら、生きて存在しようとする人間は、欲望そのものを捨てることは決してできないから。
つまり釈迦は、苦の原因である欲望を生み出す“生きる”存在を苦だと見極めて、そして存在を“やめよ”(除去せよ)と言っているのだと思っております。
つまりそれは、存在しているとする“自己”を見極めて、それは存在などしていないと見極め、世界から解脱することが「涅槃」への道だと言っているのだと思っております。
>>そう、そうしてあなたはひたすら動き回って“生きて”いくことになるでしょう。「これは天命だ!」「次も天命だ!」と叫んで。
>私は、そうすべきだと「信じます」。
はい、どうぞ“生きて”楽しんで苦しんで下さい。
>ブッダも、飯食って、糞して、寝て、喋っていただけ。たけ(tk)の生活と何のかわりもな
>い。たぶん、BBマークさんの生活とも何のかわりもない。そこに『生きているという
>確信』のイメージがある。と思っています。
ブッダが、飯食って、糞して、寝て、喋っていただけで、あなたと一緒だと勘違いしないほうがいいです。彼等は、“生きてはいない”と俺は思っています。
>十無記というコトバを調べてください。
あなたが、どのようにこれを理解しているかは、疑問ですが、了解。