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ここのところ、頭をカラッポにして(何も考えずに)あまたの阿修羅投稿を眺めていたりする。
最初は誰かがスレッドを立て、そのテーマに即して人々が参加し、論議スタートとなるのだが、まァだいたい「意見の衝突→喧嘩→物別れ→捨てゼリフ」という経緯を辿るのが一般的ではないだろうか。(爆)
ところで、デラシネが先月初め、ふと興味をもって投稿したテーマに“クオリア”がある。
http://asyura2.com/0510/idletalk15/msg/112.html
これについては特に議論が立ち上がるでもなく終わったが、今日になってたけ(tk)さんがまた持ち出してこられた。
(デラシネよりもずっと以前からクオリアには注目されていたらしい。)
http://asyura2.com/0510/dispute22/msg/281.html
また、このクオリアについての考察をされているたけ(tk)さんは同時に、別板で「ロジャーズの人格理論」に言及されていたようだが、デラシネもまた昨日、ロジャースの「クライエント中心療法」を思い立って投稿したところ。
“クオリアとロジャースの関連”が、ほぼ同時期に我々二人の意識野に昇ったというのは非常に興味深い。
http://asyura2.com/0510/idletalk15/msg/409.html
ところでまた、別な話。
最近、あっしらさんが他の複数の皆さんと、それぞれ別々なテーマにおいて長い議論を展開されていた。
特に参加もせず、何気なくぼんやり眺めていたのだが、ひとつ気づいたことがあった。
あっしらさんの議論相手の皆さんには大変失礼な物言いになるが、一連の議論を通して見て、“あっしらさんにあって、他の人にないもの”があることに気がついた。
それは何か、何と表現したらいいのか随分と考えてみたのだが、まさに「これ」という表現に出くわした。
それは「文脈」である。
それで、早速議論板に「文脈依存性」というテーマで投稿してみた。
http://asyura2.com/0510/dispute22/msg/274.html
ところで話は前後するが、小生がロジャースの「クライエント中心療法」を投稿する前段階において、ミンデルの「プロセスワーク」に言及した箇所がある。
安楽死についての議論を一鍼多助さんとやらせていただいた際なのだが、ここで出てきたテーマは「他人の視点に寄り添う」ということだ。
この議論の延長上において、むしろミンデルよりロジャースについて紹介したほうが一般的にはわかりやすいのではなかろうかと考え、「クライエント中心療法」を投稿した次第。
さてこの「クライエント中心療法」を小生が投稿したのが10月29日の12時03分39秒。
「文脈依存性」を投稿したのが10月30日の08時41分32秒。
で、ついさっき気がついたのだが、あっしらさんが10月29日00時54分17秒に、以下の投稿をされている。
小生、マスコミ板はほとんど見ないので、見落としていた。
http://asyura2.com/0510/hihyo2/msg/132.html
ここまで書けば、賢明な読者諸氏はピンとくるのではないだろうか。
「文脈依存性」「メディア・リテラシー」「視点を変える」の三つがここでのキーワードになるのだが、この三つの概念は、それぞれを結べばひとつのリングを形作る。
http://www.mlpj.org/what-j.html
我々三人が三人とも、直接的にも間接的にも対話をしていた訳でもなく、てんてんばらばらに投稿していたにもかかわらず、実に驚くべき“内的宇宙の同質性”が見てとれるのだ。
また時系列的に見てみれば、(これは小生の主観だが)我々三人が三人とも、お互い同士の投稿から、ある種のインスピレーションを得ているのではなかろうか。
これは「影響を受けた」ということとは、まったく次元の異なることのように思える。
この“内的宇宙の同質性”(注:これは小生の造語です)に着目して見れば、「これはある種のコミュニケーションたりえるのではないか?」と、ピンときた。
直接間接を問わず、表面的には全くコミュニケーションをとっていない我々三人が、その実かなり深いレベルで相互にコミュニケートしていたと言えないだろうか?
もちろん、テレパシーという概念とは全く違う。
「同じ文脈における住民同士」なのかもしれない。
たけ(tk)さんとあっしらさんのコメントを待つ。