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(回答先: 「生きる意味」についての補足 投稿者 あっしら 日時 2005 年 10 月 28 日 03:53:20)
>BBマークさん、考え方の違いが明瞭になってきたと思いますので、やり取りをそろそろ終息させたいと思います。
前から議論には不毛さを感じておりますので、終息することには同意ですが、一応俺の意見も書いておきます。
>人の想像力(=思考力)はそれほど異様なものだと思っています(微笑)。
>歴史も把握することは不可能です。(遺跡は過去のものではなく現在のものです)
>宇宙の外なぞない(把握できない)のに、宇宙論は膨張説などそれを含意したものになっています。
>(そのために宇宙が特殊な曲面で覆われているような話も出てきます)
>“無”という言葉(=概念)が存在すること自体が人の想像力の“異様さ”を示すものです。
>人は夢想し、ときには夢想(想像・思考)の内容をリアルなものと感じ、狂喜したり畏怖したりするものなのではないでしょうか。
もちろん人は夢想し、ときには夢想の内容をリアルなものと感じ、狂気したり畏怖したりするものだと俺も思ってはおります。
「遺跡は過去のものではなく現在のものです」と理解され、表現されているあっしらさんならば、俺の言いたいことを理解して頂けるとは思うのですが・・・。
もし、この遺跡に恐怖しているとするなら、 「過去」に対して恐怖しているのではなく、それを感じている「今」に対して恐怖している(または、過去に「今」生きていると感じて恐怖している)のであって、「過去」に恐怖しているのではありません。
「過去」とは、「今」把握された「今」の内にある「過去」です。それに対する観念は、「過去」に対するものではなく、「今」に対するものです。
「無」を夢想して恐怖したとしても、それを観ている(夢想している)時点で、観ているという「有」があり、結果的に、「無」という状況に対してではなく「有」という状況に対して恐怖しているものです。
「無」とは、「有」という状況から把握された「有」の状況の内にある「無」です。それに対する観念は、「無」という状況に対するものではなく「有」という状況に対するものです。
同じ様に、
「死」とは、「生きている」という状況から把握された「生きている」状況の内にある「死」です。それに対する観念は、「死」という状況に対するものではなく「生きている」という状況に対するものです。
もしこれが、おかしいというのでしたら、「遺跡は過去のものではなく現在のものです」というのも、おかしいとさえ言えると思います。
>>また、「今を楽しんで生きていきたい」というのは、それは不満が出発点になってお
>>り、「今は楽しくはない」というのが根底にあるはずです。
>そんなことはありませんよ。
>今をそれなりに楽しんでいます。
>もっと楽しく生きていける世の中を願ってはいますが...
なぜ「楽しい」と感じるのでしょう。それは一時的に苦痛ではない状態ではないでしょうか。掲示板議論が楽しいと思ってやっていても、相手の投稿者の態度や掲示板状況等によってすぐに苦痛に変わるはずです。自分の許容量を超えたり、飽きてきたりしてもそれは苦痛に変わるはずです。そしてその苦痛を回避するため、新たな楽しむ対象を見つけ次の行為へ移っていきます。「楽しむ」と「苦痛」は表裏一体であり、ただどちらの期間が長いか、度合いが大きいかという問題です。
なぜ自分は、「楽しい」を欲するのか、願うのかということを考えたことはないでしょうか?
「苦痛」を知らなければ、「楽しい」を知らないし、それほどの欲求も起こらないでしょう。
人には、まず「苦痛」があるのだと思います。「苦痛」が何かしらの「楽しい」と感じることへの衝動として、根底にあるのだと思います。
>退屈は、とても贅沢なことだと思っています。
>退屈を楽しむこともあれば、退屈に嫌気を覚えて何かをやって楽しむこともある、というものです。
退屈が贅沢だとするのは、他の苦痛と比較しての一時的なものだと思います。退屈を楽しいと感じるうちは、苦痛ではありませんが、退屈も、それが続くと極度の苦痛になります。テレビも何もない部屋で、ただ永遠と過ごすことはできないでしょう。好きな事だといって、それをずーっと続けてはいられないはずです。
それに俺が話していることは、「楽しい」と感じるうちは、その「楽しい」をやっているけど、「楽しい」が「苦痛」に変わると、次は他の「楽しい」を求めて彷徨うということです。退屈そのものが、苦痛かどうかのことを言っているのではないです。
>苦痛を楽しむ人なら、それは苦痛でなく快楽です。
>他の多くの人が苦痛と思うことを快楽と思う人もいないわけではないと思っています
何を「苦痛」だと感じるか、「快楽」と感じるかは、人それぞれです。
「苦痛」を楽しむ人は、その人にとっては、それは「快楽」の状態です。それが「楽しい」と思えば、それをやるでしょうし、「快楽」が「苦痛」に変われば、それはやめることになるでしょう。
>そうまでして生きているわけではなく、「どう抗ってもどうせいつかは死ぬのだから、
>自ら死のうとしないだけ」という人もけっこういるのではないでしょうか。
しかし死が来るまでは、生きています。死が来るまでは、「生きよう」として生きています。
>仏教的には仏となって輪廻転生から抜け出すことが悟りの目的でもあるわけですから、
>永遠の輪廻転生をよしとしているわけではありません。
仏教的には、輪廻転生から抜け出して「悟ろう」とするのも、この生のすべてが苦に満ちているからというのが趣旨だと思います。
>畜生に生まれ変わっても、地獄に落ちても“自分”として生き続けたいと思う人もいる
>かもしれませんね(笑)。
まっ。人それぞれだと思います。(笑)
>超越神的宗教観念よりも近代的な価値観のほうが強いようですから、「生きることの意味」
>を無媒介的に持ち出すひとより、進化の頂点にいる人間なのだからのんべりだらりと生きる
>のではなく目的意識を持って生きなさいという脈絡で持ち出すひとのほうが多いと思っています。
それは「人は、進化の頂点にいる人間として生きる」という意味付けを「生きる」にしているからではないでしょうか。
>どのようなことに関する意味であっても主観的なものでしかありませんから、ほんとう
>もなにもありません。
>生きていることそのものが意味があると言っているのであって、ただのんべりだらりと
>生きることに意味があると言っているわけではありません。
>人としてこの世に存在していることだけで十分に意味があると考えています。
>それ以上の意味や生き方は人それぞれが考えることだと思っています、
なぜ人としてこの世に存在していることだけで十分に意味があるのでしょうか?それは、人に何かしら貢献できるからでしょうか?とするなら、なぜ貢献しようとするのでしょうか?・・・・・・と、掘り下げていくと、「わからない」というところまで辿り着くでしょう。その時、この世に存在しているだけで意味があると、果たしていえるのかどうか。もちろん“何か”に対しては意味があるのでしょうが、ならその“何か”は本当に意味のあることなのか?ということです。
>生きることに限らず、人の考え方を鵜呑みにすることも、「自分が勝手に創り上げた意味
>(判断)」です。
>自分の感性・思念の他に意味ある存在はないと考えています。
では、どういうふうに意味があるのでしょうか?自分が存在するため?世界が存在するため?では、なぜそれが起きるのですか?それはどんな意味があるのですか? と・・・。